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第56話
(九時に来い、か……)
腕時計に目を走らせた。今から大車輪で書類仕事を片づけて退社すれば、間に合うはずだ。とはいうものの、あれこれ言われる筋合いじゃない。その点が、ひっかかっている。
「あることに悩んでいて、考えても考えても堂々巡りだったら、小田ならどうする」
「玉砕上等で、とりあえず行動する」
「かえって泥沼にはまり込むことになるかもしれなくても?」
「そっ、やらないで後悔するよりは、ダメもとで動くほうが〝がんばった自分〟が残るだけマシ」
がんばった自分、と鸚鵡返 しに繰り返したあとで、妹尾は速球投手ばりに空き缶を振りかぶった。三メートル離れたところに口をあけているポスト型の空き缶入れに狙いを定めて腕をしならせる。
空き缶は放物線を描いて飛んでいくと投入口にきれいに吸い込まれ、小田が拍手をした。
そうだ、と大きくうなずく。来い、というなら呼び出しに応じよう。そして紺野がなぜ自分をかまいたがるのか、その真意を問いただそう。
「アドバイスをありがとう、参考になった」
「お安い御用ですよ。じゃあさ、彼女もちに協力してもらって合コンやろうぜ」
「合コンはパス。おれ……気になってる人がいるから」
「マジに恋の予感なのか? どんな娘 ? で、いつ告るんだ」
ノーコメントで押し通すと、妹尾は、足早にオフィスへ向かった。これまでの例から言って、紺野は奇抜な計画を立てているに違いない。さくさく仕事をやっつけて、それをこの目で確かめにいこう。
ところが自席でパソコンを立ち上げた矢先、緊急ミーティングが開かれることになって、営業部員に召集がかかった。
厄日なのか、と妹尾は天を仰いだ。小田ではないが、営業部にしわ寄せがくる原因を作ってくれた校閲部に乗り込んでいって、マシンガンをぶっ放したくなる。
ともあれ訓示を垂れはじめた営業部長に、手短に、と念を送ったのが功を奏したのかもしれない。案外、あっさりと解散が告げられた。
しかし、遅れを挽回するにはいよいよ時間的に厳しい。上司に書類に判をもらいにいくさいにも、ともすればかけ時計に視線が流れるありさまで、ついに禁じ手を使った。
「ひどい頭痛がするので、これであがらせてもらいます」
タイムカードを押したのが八時半。乗り継ぎさえよければ、ここ、と指定された場所までおよそ三十分。だが、今夜はとことんツキに見放されているとみえる。人身事故が発生した影響で、電車のダイヤは大幅に乱れていた。タクシー乗り場も長蛇の列。
焦燥感に胃がきりきりと痛み、鮨詰めの電車に揺られている間中、腕時計とにらめっこしていた。日本有数の繁華街にほど近いターミナル駅に辿り着いたときには案の定、九時を二十分あまり回っていた。
そして手書きの地図に印がつけられていたのは、駅前のスクランブル交差点を渡って数百メートルほど行った先。
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