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第58話

   そして、ぽかんと口をあけた。瞼をこすり、目をしばたたいてから、今いちど頭上を眺めやる。狐につままれたよう、というのはこういう状況を差していうのだろうか。   黒いタキシードをまとった紺野が、街頭ビジョンに映っている。 『願い事その一、まずはあなたの名前を教えてもらう。その二、職業も知りたい。その三、眼鏡を外した顔を見せてもらう。その四、家に遊びにいく。その五、公表をはばかる方面でステップアップを図る……前半はとんとん拍子に叶った』    一と一を足してピンときたようだ。先ほど紺野の目撃情報をつのったうちのひとりが、妹尾と街頭ビジョンを交互に指さした。 (紺野さん、恨みますよ……)  妹尾を俎上に載せて願い事と称する戯言(たわごと)を並べてくれるとは、洒落がキツい。  妹尾はマフラーに鼻先まで埋めた。街頭ビジョンから死角になる位置をめざして、立錐の余地もないような中をずれていった。全身が汗ばみ、それでいて魅入られたように、切々と訴えかけてくる紺野から片時も目が離せない。 『その六、私服姿を見てみたい。その七、俺の部屋に招待する。その八、タメ口をたたき合う仲になる。その九、デートに誘う』  ヤラセ? 何かのプロモ? 〝妹尾さん〟はここにいるの? 羨ましいかも……等々。  十重二十重にビルを取り囲む人たちが、さえずり交わすように口々に言い合う。公開告白万歳、とハイタッチを交わす女子のふたりづれ。自分たちの身に置き換えた様子で、ビジョンをうっとりと見つめるカップル。勇気に乾杯、と缶ビールを掲げる一団。  キモい、と吐き捨てる者はほんの少数派で、好意的な感想のほうが遙かに多い。それは、聖夜という特別な夜の魔法なのか。それとも、紺野の語り口が誠実さにあふれているためなのか。  最後の最後にきて〝その十〟を度忘れしたのかもしれない。掌をこちらに向けてタイムを要求する紺野の姿が、ビジョンに大写しになった。ブラックタイに触れてひと呼吸おくと、実際に妹尾と相対しているように決意に満ちた顔を正面に向けた。  直接、熱っぽい視線をそそがれているように感じた。妹尾は、せかせかと眼鏡を押しあげた。コートの袖口をいじり、長さが一ミリ足らずの糸くずをつまみとった。 (一世一代のサプライズだ、って……)  紺野なら、ドヤ顔でうそぶきかねない。冗談じゃない、と殊更苦々しげな口調で独りごちた。魂消た、という次元を通り越して寿命が確実に十年分は縮まった。奇想天外な告白にときめきっぱなしだなんて本当のところは、口が裂けても言ってあげない。

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