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第60話

「俺は誰かを好きになったらひと筋の男だ。つき合ってくれ」  雑踏にまぎれてしまえば紺野を撒ける。弱気の虫にとり憑かれて、妹尾は地下鉄の入口までの距離を目で測った。もっとも、いわば包囲網が敷かれたあとだ。強行突破を図っても面白半分に紺野に加勢する連中に押し戻されるのがオチだが。  現に酔っぱらい率の高いグループが、スクラムを組んで通せんぼをする。妹尾はひとつ、ため息をついた。凛と背筋を伸ばすと、絶対零度の目つきで紺野を射すくめた。  そして、懇々と諭すような口調で言った。 「恋愛感情の寿命は蜉蝣(かげろう)の命のように短い、うたかたのものだと学習したんです。もし、ここでイエスと言ったとして……あなたが心変わりしないという保証はありますか」 「そんなもの、あるかよ。溝ってのができてもな、そいつを埋めるために努力し合うことを愛を育むって言うんだ」  愛情は永久不変、と紺野が安請け合いをしていれば、妹尾は無言で立ち去っていた。 (『努力する』。馬鹿正直にも程がある……)  ぶっきらぼうな反面、ひたむきさにあふれた(げん)を反芻して噴き出した。優勝トロフィーのように花束を掲げた紺野を見つめ返す。  こういう、あけっぴろげな性格の(ぬし)とだったら、南極大陸を徒歩で横断する、というクラスの困難ですらやすやすと乗り越えていけそうな気がする。  では、比類のない殺し文句に魂を鷲摑みにされたときは、笑えばいいのか怒ればいいのか、それとも泣けばいいのか。  躰が、その答えを知っていた。  妹尾は、紺野の胸倉を摑んだ。強靭な躰を力任せに引きずりあげ、紺野が中腰になるのもまだるっこしくむしゃぶりついていけば、蹴つまずいた。 「抱きつくなら抱きつくで予告してくれ」  体当たりをかまされる形になって、紺野が尻餅をついた。そこに妹尾が、勢いあまって覆いかぶさった。  めでたくカップル成立、という展開に歓声があがった。折り重なって転がるふたりに、おびただしい数のスマートフォンが向けられる。妹尾は莞爾(かんじ)と微笑んだ。撮りたきゃ勝手に撮れ、動画をSNSで拡散したけりゃ好きにしろ、という心境だった。  眼鏡がずり落ちてもツルが耳から外れるに任せて、ますます紺野にしがみついた。 「つくだ煮にできるくらい証人がたくさんいるからな。『おれがいつОKしましたっけ』なんて、前回と同じパターンでシラを切っても通用しないぞ」 「根に持つ人ですね。男に二言(にごん)はない、というやつです」  妹尾独特のひねくれた言い回しによる「イエス」。それプラス仏頂面と裏腹に桜色に染まった頬を見れば、想いが通じた、という実感がようやく湧いてきたようだ。紺野が万歳をした。  妹尾は、すっくと立ちあがった。興味津々、とそろいもそろって顔に書いてある観衆を睥睨(へいげい)したうえで、カーテンコールに答えるプリンシパルのように優雅に一礼した。  この場は自分の指揮下にある、という手ごたえを感じた。そこで妹尾が鷹揚にうなずきかけると、モーセが杖を振り上げるにつれて割れていった紅海のように、人垣が右と左に分かれて花道ができた。右手で紺野の手を、左手で花束を摑んで駆けだした。  コートが風をはらんでネクタイが翻る。薔薇の花びらが舞い、それは人生の門出を祝ってくれているようだ。 (遠回りしたけれど……)  精悍な横顔を盗み見た。紺野の作戦勝ちだ、と思えばカチンとくるものがなきにしもあらずだ。だが、瓢箪から駒という形で恋心を自覚するのは、クリスマスの奇蹟にふさわしくてまんざらじゃない。  自然と笑みがこぼれた。誰かをまた、しかも同性を好きになるだなんて人生は驚きの連続だ。自分の気持ちに正直になると、古い(ころも)を脱ぎ捨てたように身も心も軽い。 「おれが、おねがい煙草をするなら……恋なんてくだらないもの、という信条に反することになった責任をとってくれ、です」 「望むところだ。ゲップが出るくらいべったべたに愛してやるから覚悟しておけ」  ビルが建ち並ぶ坂道をのぼりつめた。ここまで来れば、駅周辺のざわめきは遠い。  きよしこの夜、と紺野が口ずさんだ。星は光り、と妹尾が後を引き取った。ハミングでハモるうちに、それの主成分が窒素から恋情に変化を遂げたように、ふたりの間を流れる空気はどんどん甘美なものをはらんでいく。  見交わした。どちらからともなく抱きしめ合った。妹尾は伸びあがり、紺野はこころもち腰をかがめた。吸い寄せられるように唇を重ねた。  思いの丈をこめて交わすくちづけは、最高級の豆で淹れたコーヒーの何万倍もコクがある。

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