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第4話 玖月
岸谷の家を出て自宅に戻った玖月は、真っ先にバスルームに行きシャワーを浴びた。
仕事とはいえ、久しぶりに他人の家に入ったことと、犬に舐められたことが気になってたまらなかった。
それでも潔癖の症状はそんなに出る事はなく、シャワーを浴びスッキリしたら気分も落ち着いていた。
陽子は「終了したらメール連絡だけでいい」と言っていたが、玖月から陽子に電話をかけてみることにした。ワンコールですぐ陽子に繋がった。
「陽子さん?岸谷さんの家、終わったよ」
「玖月!お疲れ様、大丈夫だった?」
「岸谷さんって、この前スーパーで僕に傘を投げて渡してきたあの失礼な人だったよ。偶然で驚いた」
スーパーで会った時と印象は違っていたが、あの傘を投げた態度を思い出し、やっぱり失礼な人だと玖月は思っていた。
「ええっ、うそ!偶然!スーパーで会った人だったか…しかも同じマンションに住んでるなんてね、まぁ、驚くわ。でも、岸谷社長は全然失礼な人じゃないわよ?」
「そうかな…よくわかんないけど。でも、びっくりしたよ本当に。あ、それでさ、僕の潔癖症のこと岸谷さんに話してたの?」
「えっ?玖月の?何も言ってないわよ」
「えーっ、本当に?何かわかってるみたいな感じだったけど…それとさ、あの人、犬を引き取ったんだって。その犬が部屋の中をイタズラしてたんだよ。だからめちゃめちゃになっててさ。またやると思うよ?あの犬。つうかさ、あの犬、絶対ストレス溜まってると思うだよね。遊びたがってるんだよ」
「ちょ、ちょっと待った。なに?犬?」
玖月の勢いに押されかけた陽子が話を区切った。こんなに興奮して話をする玖月は珍しいと思っているようだ。
玖月はシャワーを浴びながら、あの犬のことを色々と思い出していた。
最初は、お尻を押されて背中に乗り上がってきたのに驚いて、声を上げてしまった。その後も、膝の上に乗ってきたり全く人見知りをしない犬だった。マスクを舐められた時は飛び上がるくらい驚いたけど。
だけど、犬が部屋中イタズラして汚すのは何か理由があるはずだ。飼い主なんだからストレスを溜めないようにしてあげなくちゃいけないのに、あの人は大雑把っぽいからそんなのわかんないと思う。
仕事中だから仕方なかったけど、尻尾をフリフリとして寄ってきたのに、玖月は構ってあげられなかったなと考えていた。考え始めたら、何だか気が気じゃなくなってきた。
そんなことを、つらつらと陽子に訴えていたら、電話口でゲラゲラと笑われた。
「玖月、すごく気になってるじゃない、犬のこと。潔癖症だから犬の毛が服に付くのが気になるとか、犬のヨダレが気になるとかそういうことは言わないのね」
「気になるよ!気になるから帰ってきてすぐにシャワーを浴びたんだから。だけど、仕事だと思って行くからなのか、アルコール消毒するほど気になることはなかったかな。それより、あの犬のイタズラは止まらないって。絶対、またやるよ」
「まあまあ、犬のイタズラは仕方ないでしょ。岸谷社長も大変なのね…だけど、玖月が気にするのは意外ね。岸谷社長のところを担当する?」
「いや、もうダメ。次は無いからね、今日だけだから」
陽子と電話を終えてやっと一息ついた。
明日からの仕事スケジュールを頭の中で考えながら、食事を軽く作ることにした。
作りながら、岸谷のインスタント食品ばかりのキッチンを思い出す。犬は元気いっぱいだし、ゆっくりご飯も食べられないんだろうなと想像する。そう想像してすぐに他人のことだからと、考えるのをやめた。
岸谷のキッチンについて考えるのをやめてすぐに、そういえば、ひまるって呼んでたなと、今度は変わった名前の犬を思い出す。
犬は赤ちゃんではないが、成犬でもないと岸谷は言っていた。ゴールデンレトリバーの成長はどんなもんかと、玖月はネット検索を始めた。
食べながら、飲みながら、ひとりでネット検索をするのは楽しい。楽しいが、今日の出来事が引っかかるのか、衝撃だったのかわからないが、考えるのは岸谷の家のことばかりである。検索履歴は見事に犬のことだらけとなっていた。
◇ ◇
あれから数日は静かな日々を過ごし、犬のことを忘れかけていた玖月に、また陽子から直接連絡が入ってきた。
「玖月…指名だよ、岸谷社長。緊急だから今から行って欲しい」
「はぁ?この前限りって言ったじゃない!無理!絶対、無理!」
「玖月の言ってた通り、犬のイタズラが止まらないみたいでさ。ここのところ頻繁に緊急の掃除の依頼があって、他のベテランスタッフが行ってたのよ。だけど、犬にめちゃくちゃ吠えられちゃうみたいで…そしたら、岸谷さんから玖月指名でお願いしたいって連絡あってさ…」
「えっ?吠えないよ、あの犬」
「いや、吠えるんだって。スタッフからも吠えたり唸ったりされたって報告あったし、岸谷さんも申し訳なさそうにそう言ってたわよ。それで、他のスタッフが行った後は、犬がもっとイタズラするらしいのよ。だから玖月に来て欲しいって言われてるの」
以前、岸谷の家に家事代行で行った時、犬は機嫌良く尻尾をフリフリさせていた。玖月に向かって吠えることもしなければ、唸ることもされていない。どうしたんだろうか。やっぱり十分に構ってもらえていないのだろうか。
途端に犬のことで玖月は頭がいっぱいになってしまった。
初めて犬に会った時は、お尻を押されマスクを舐められ、潔癖症では悲鳴を上げそうなことばかりされたのに、そんなことはどこかにいってしまい今では心配になる程だった。
「ちょっと!玖月、聞いてる?」
「…ああ、ごめん、聞いてる。で?今から?この前と同じ掃除でいいのね?」
絶対無理だと思ったが、急にトーンダウンして、この前よりも多くの掃除グッズと、強力なコロコロを持って行く決心を固めた。何故だか自分でもよくわからない。
「ありがとう玖月…助かる。それと、」
陽子が電話口で色々と呟いていたようだが、耳に入らず早々に電話を切り上げた。
玖月は戦闘態勢に入り、掃除バッグと潔癖症装備をして岸谷のところへ向かう。
一度行っているし、岸谷の家は玖月のマンションの最上階なので勝手もわかる。
ものの10分で到着することが出来た。
エレベーターを降りるとドアがひとつ。
以前と全く変わることはない。
インターフォンを押すと、「はい」と岸谷の声が聞こえ、後ろから犬の声も聞こえてきた。
「荒木家事代行サービスです」
玖月がそれだけ言うと、バタバタという音の後すぐに玄関のドアが開いた。
「…玖月くん、助けてくれる?」
疲れている様子の男がドアを開けて、出迎えてくれた。
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