8 / 61
第8話 玖月
「あはは。やぁだ、ひーくん、こら、もうどいて?動けないよ?」
ひまるが可愛い。犬との生活は初めてだが快適だった。懐いてくる感じが可愛くてたまらない。
住み込みの仕事を想像していた時はビクビクしていた。いや、実際生活を始めてすぐは、岸谷にビクついていた。岸谷が近づいてくると内心では、うわぁ…と拒否反応が出ていた。
だけど、ひまるの面倒を見て家事代行の仕事をしていると、次第に岸谷への免疫も付き、何とも思わなくなっていた。
なので、すこぶる順調に物事が進んでいる。今は問題は全くないように思える。ペイントハウスは広くて綺麗だし、自分の好きなように掃除ができる。心配していた潔癖症も影を潜めていた。
それに岸谷が随分と歩み寄ってくれているのが大きかった。陽子が玖月を住み込みで派遣する条件を、かなり細かく入れていたが、全てをすんなりと受け入れてくれている。性格は真逆だと感じるが、心配していたほどではなく岸谷との関係も良好である。
家事代行サービスの金額は、どれだけ支払う契約にしたのかわからないが、陽子はニコニコとご機嫌だった。
そして、玖月が岸谷の家で使うものほぼ全て、新しく岸谷が購入してくれた。ベッドと洗濯機を新しく購入したと言った時は驚いた。
ペイントハウスのゲストルームの方に洗濯機とベッドが新しく配置された。新しいベッドなので潔癖症も発動することなく、すんなり眠れるし、洗濯機も新しいなんて本当に贅沢だと思うが快適だ。
最初に出会った時の最悪な印象から、かなり良い方へ上書きされている。
それに、自分自身で一番驚いたことは、やっぱりひまるの存在だった。一緒に過ごす時間が増えるほど、愛しくてたまらない気持ちが湧き出てくるのがわかる。
潔癖症マイルールがあるので、毎日犬と共に生活できる日がくるとは思わなかった。
「ほら、ひーくん、お散歩行こっか」
岸谷の仕事が忙しくなったという。週半分は在宅ワークだったのに、今は毎日出勤しなくてはならないらしい。
朝、岸谷が家を出た後は、ひまると玖月の二人で過ごす。日中は人材コーディネーターの事務処理を岸谷の家で行い、その後ひまるとドッグランや散歩に行くのも日課になっていた。
最初の2、3日は家の中でもマスクと手袋を二重にしていたが、ひまると生活するのに煩わしくなり、外に出る時以外は外すことにした。なので今は、岸谷がそばにいる時だけ、マスクを着用しているくらいだった。
ひまるを素手で触るとフワフワとしてくすぐったい。それでも可愛くてたまらないから頬擦りをしたりしている。潔癖症マイルールにひまるは一切入らないようだ。
ひまるのことを『ひまるくん』と呼んでいたが、長ったらしいので、最近は『ひーくん』と呼ぶようになった。そうすると何故か、岸谷も優佑と下の名前で呼んでくれと言い出した。『岸谷さん』だと、距離を感じると言っている。仕方ないので、『岸谷さん』と呼ぶのは封印して、今は優佑さんと呼んでいた。
岸谷は意外にも面白い人だった。大雑把な性格に変わりないが、ひまるも可愛がるし、悪い人ではないと思うようになってきていた。
「ひーくん、今日は週末だから特別にキャベツあげるよ。夜ご飯の時にあげるね」
ひまるは玖月に寄り添うように歩く。吠えたり唸ったり、ドッグランで他の犬と喧嘩など一切しない。家事代行の他のスタッフが吠えられたというのが玖月には不思議だった。
岸谷の家で生活を始めたので、必然的に家で玖月が自炊をしている。食材はいつも新鮮な野菜や魚、肉などが宅配で届けられる。高級スーパーから直接届いていた。
犬を連れて買い物に行くのは難しいと、岸谷が判断してサッサと宅配に切り替えていた。とても便利で快適だが、たまにはスーパーに買い物に行きたいなと、玖月は考えている。
食事は玖月が二人分を作っている。今のマイルールでは、玖月は自分で作ったものしか食べられないからだ。なので、必然的に岸谷の分も作り、二人は同じ物を食べるようになっていた。
岸谷は以前インスタントばかり食べてたようなので、何を作っても驚き、よく食べてくれる。ただ、同じ物を食べているが、玖月は岸谷と同じテーブルで食事を一緒に取ることは出来ないでいる。
自分が作った料理でも、人と一緒に同じテーブルで食べることが出来るのは、限られた人とだけだ。だから岸谷と一緒に食べることはまだ難しい。
以前付き合った彼女の料理が食べられなかったのは、彼女だからではなく、他人が作った物なので食べるのが難しかったのかもと、ここのところ、そんなことばっかり考えていた。
だけど、他人とは言うが、実際付き合っていた彼女だ。それなのに、潔癖症の拒絶反応が出て手料理を食べられずにいたのは、相手に対して失礼な態度だったとわかっている。
彼女のことは好きだったと思うが、一緒に食事をすることは難しかった。せいぜい出来てコーヒーを一緒に飲むくらいだった。
それでも彼女と付き合っていたのは、何とかして早く結婚したい、結婚して兄の知尋のように一人前になりたいという気持ちが玖月には強くあったからだ。
結婚のことを考え、世間体を考えてばかりで付き合っていたから、彼女の内面や気持ちは二の次になっていた。
酷いことをしたなと改めて思う。自分の性格も、このややこしい潔癖症マイルールも大嫌いだ。
やめたいのにやめられないマイルールが恨めしいし、結婚を焦る自分自身にも嫌気がさす。
一人前になりたいと思うが、何をしても知尋と比べてしまい、玖月は自分に自信を持てない。
ドッグランでひまると一緒に遊ぶと夕方になっていた。そろそろ家に帰り、掃除をしてご飯を作ろうと考える。
「ひーくん、帰ろっか」
ひまるの玖月を見上げてみている顔が可愛らしいので、玖月はマスクの中でクスクスと笑った。犬にはマイルールが発動しないから、ひまるを傷つけないで良かったなと考えていた。
◇ ◇
「ひー、いる?」
「あ、はい!」
ドッグランで遊んでいたら少し遅くなってしまった。急ピッチで掃除をし、料理を作っていた玖月は、咄嗟に呼ばれて返事をしてしまった。
しまったと思い振り向くと、すぐ後ろに岸谷がニヤニヤしながら立っていた。
「ひまるを呼んだのに、玖月が返事するんだもんな」
玖月は幼い頃『ひーくん』や『ひー』と家族から呼ばれていた。今では知尋や母の陽子は玖月と呼ぶが、たまに『ひー』と、まだ呼ばれることもある。
少し前に、ひまるを『ひー』と呼んでる岸谷に向かい、間違って玖月が返事をしてしまい笑われてしまった。
その時からたまに揶揄うように岸谷は玖月をそう呼んでくる。それに、いつの間にか『玖月くん』から『玖月』にも呼び方は変わっていた。
「もう…間違えました。おかえりなさい。優佑さん」
「玖月、ただいま。これ買ってきた。後で開けて。じゃあ俺はシャワー浴びて、髪の毛を乾かしてから来るからな」
家に帰ってきたらすぐにシャワーを浴び、髪の毛はきっちり乾かすという、玖月の条件を岸谷は守ってくれている。
何を買ってきたんだろう。チラッと横目で見ても中身まではわからない。
ともだちにシェアしよう!