9 / 61

第9話 玖月

シャワーを浴び終わった岸谷は、リビングで、ひまると遊んでいる。スーツ姿だと圧倒され、ちょっと近寄りがたい印象を持つ彼が、部屋着になると急に人が変わったように見える。 朝、出かける前はビシッと仕立てのいいスーツに身を包み、髪も整えているから隙がない社長の顔になっているが、家に帰ってきてシャワーを浴びるとリラックスしているからか、若く見えてやんちゃなお兄さんのようだ。 どちらの岸谷もイケメンなので、会社でもモテるんだろうなという目で見ている。 「今日もありがとう。玖月」 それに岸谷は優しい人だということも知った。必ず毎日ありがとうと、帰宅した岸谷は玖月に言う。ひまる、大変だったろと。 ひまるは大変ではないのに、毎回言われるとくすぐったい感じがする。イケメンって「ありがとう」って言うだけでカッコいいんだなと、こっそり岸谷を見ていることが多くあった。今までみたいに、無理!無理!こっちに来る!とは思わなくなっている。 「ご飯食べますよね?今すぐ出来ますから」 「おお!いい匂い。腹減ってるんだよなぁ…今日は何?」 キッチンまで岸谷が入ってきて玖月の手元を見ている。岸谷には潔癖症だと伝えているが、急に近寄られてビクついたり、玖月が岸谷に失礼な態度を取っていることが多くあった。 だけど岸谷はそんなことされても、何も気にしないようで、いつも自然体でいる。 失礼な態度の他人と急に生活するのは、気持ちのいいものではない。なのに、全てを受け入れ、好きなようにさせてくれているのは、岸谷の器が大きいと感じるところだ。 玖月は、近くに岸谷が来る度にビクビクとしていたが、次第に慣れてきているのと、ひまるを構ったりしなくてはならないので、そのうちビクついたりしなくなっていった。 今では岸谷と近くで話をしたり、食器を手渡しすることも出来ている。マスクは外せないから、まだ失礼なところはあるけど。 「最近、お魚が続いてたから今日はお肉にしたんですけど。よかったですか?」 「いい!いい!肉、食べたかったんだ!」 よーし!と大声を上げ、ガッツポーズをし冷蔵庫からビールを取り出している。それを見て、マスクの下で玖月はクスッと笑った。 岸谷とひまるはよく似ている。外では精悍な顔つきをし、凛然としているが、家に入ればそうではない。よく家の中で戯れあい、岸谷とひまるは遊びが行き過ぎていることがあった。 この前、家の中で岸谷がボールを投げ、ひまるが取りに行くという遊びをしていた。岸谷が勢いよく投げ過ぎ、お酒の瓶にボールが当たり、ひまるも喜んでそこに突っ込んで行き、お酒を大量に溢してしまうというアクシデントが起きた。 驚いた玖月が無言で片付けをしていると、岸谷とひまるは、シュンとした顔をして玖月の周りをウロウロとしていた。 片付け終わった玖月が振り返ると岸谷は「ごめん」と言い、ひまるはキューンと鼻を玖月に擦り付けてきて、同じ顔をして玖月を見上げていた。 片付けが終わるまで二人はずっと玖月の後ろでウロウロとしていたんだとわかると可笑しくなり、玖月は声を上げて笑ってしまってしまった。 岸谷は最初の印象とは随分と違う。そんな彼だから一緒にいても、潔癖症が出ないでいるのだろうと思っている。出る暇がないっていう方が、正しい言い方かもしれない。 岸谷とひまるの行動を思い出し、玖月がニヤニヤとしていると、ビールを飲みながらこっちを見て笑っている岸谷と目が合った。 「玖月、また俺とひまるが似てるとか思ってんだろ。ニヤニヤしやがって」 マスクをしているのに、何故ニヤニヤしているのがわかったのだろうか。 「マスクしてるのに何でわかるんですか?凄いですね。もう出来ましたよ。こっちでいいですか?」 軽口も叩ける間柄になってきている。 ダイニングテーブルに食事を並べると、嬉しそうに岸谷がテーブルについて食べ始めていた。 食事の支度を終えて、さっき買ってきたと岸谷が言っている物を開けてみる。 「うわぁ!これ、ホームベーカリーですね。凄い!これでパンが作れるんだ…」 「玖月、欲しいって言ってたろ?ちょうど有楽町に行ってたから帰りに買ってきたんだ。これでパンが作れるか?」 「作れます!やってみます。うわぁ、楽しみ。優佑さん、もしかして、パン食べたかったんですか?ずっとお米と麺類でしたけど。気がつかなくてすいません」 「うーん、俺はパンじゃなくてもいいよ?玖月のご飯で物凄く満足してるし。玖月がパン食べたいのかなと思ってさ…違った?」 「えーっ、そうなんです。僕、パンは好きなんですけど、マイルールの中ではちょっと苦手な分野に入るんです。多分、こねるからだと思うんですけど…だけど自分で作れるのなら問題ないです!あっ、明日、外の仕事なので帰り道にドライイーストとか買って帰ろう…」 「ん?明日?外?外の仕事って何だ?」 キッチンでホームベーカリーの説明書を読んでいる玖月に向かい、岸谷が食べるのを中断して聞いてくる。 「明日は、別の家事代行があるんです。ほら、月に一回あるからその時は朝から家を出ますよって話してたじゃないですか。それが明日なんです。優佑さんが出勤した後に僕も外出して、優佑さんより先に戻ってくるから、ひーくんの散歩も行けますよ?夕飯の準備も出来ますし…掃除もしておきます。だから大丈夫です」 ひまるの散歩を心配しているんだろうと思い、早口で明日の行動を伝える。頭の中でスケジュールを立てているので問題ないと思っているのだが。 「明日、場所どこ?何時から?何やるの?掃除?」 「…えっと。はい、そうです掃除です。掃除と料理して、お昼ご飯食べて帰ってきます。場所とかはお客様情報になるから言えませんけど…朝から行って15時には戻ってきますよ。多分」 「多分?ご飯?作ってそいつと一緒に食べるのか?そこで?」 なんでこんなに急に質問ばっかりしてくるんだろうと、玖月はあたふたしてしまう。 別に悪いことしているわけではなく、家事代行の仕事なのに岸谷は問い詰めるように聞いてくる。陽子が最初に伝えた条件にも、月に一回は別の家事代行で外出すると入っており、岸谷は知っていて契約しているはずなのに。 「えっと、そうです。だから、朝から不在にしちゃいますけど、ここの仕事は、できるので大丈夫です…けど…」 最後は尻窄みに小声になってしまった。岸谷が何だか怒っているように見えたからだ。 「玖月、ごめん。怒ってるわけじゃない。そんな仕事して潔癖症が出ないのかって心配なんだ」 結構な剣幕で言っていたのになと思ったが、岸谷の方を見るとニコッと笑っている。よかった、怒ってないんだとホッとしたので、玖月は返事をした。 「ああ、そうなんです。潔癖症が出ないんですよ。お客様なんですけど、その人は僕のマイルールに入っているから大丈夫なんです。ご飯作って、一緒に食事して、たわいもない会話して。仕事で行ってるんですけど。えへへ、何だか変ですよね」 あははと笑いながら岸谷の方を見ると、難しい顔をしてこっちを見ていた。食事は中断しているらしく手が止まっている。目が合うとニコッと笑ってくれるが、何だか変だ。 「へぇ…そうか、一緒に食事が出来る奴か…」 独り言を言って食事を再開した岸谷は、今日はおかわりをすると、いつも以上にたくさん食べてくれていた。

ともだちにシェアしよう!