10 / 61

第10話 玖月

ここはいつ来ても日当たりがよく、空気も綺麗で時間もゆっくり進んでいる。 今日は月に一回の家事代行の日だ。玖月は、高坂(こうさか)喜介(きすけ)の豪邸に来ている。 高坂は日本を代表とする酒造メーカー『高坂(こうさか)酒造(しゅぞう)』の社長を務めている。母の陽子は彼を、まだまだ現役の男だという。 高坂のキッチン掃除をして、ご飯のリクエストを聞き、冷蔵庫の中にある物で作る。その後は、高坂と玖月が共に食事をするといういつもの流れがあった。 専属の家政婦さんもいるので、わざわざ家事代行を頼むほどではないように思うのだが、高坂からは『玖月のご飯を食べたい』というリクエストもあるため毎月来ている。 「おはようございます。今日はよろしくお願いします」 玖月が家政婦さんに声をかける。この家の中では、手袋を取り作業をすることが出来ている。何年も通っているから玖月のマイルールには『問題なし』と刻まれているようだ。 テキパキとキッチンの掃除を終えて、昼食の準備に移る。高坂に挨拶をするため、奥の部屋まで訪ねて行った。いつも高坂はその和室にいる。 「高坂さん、荒木家事代行サービスです。キッチンの掃除は終わりました。今日の昼食はいかがいたしますか?」 部屋の外で跪座(きざ)の姿勢で声をかけると、「入っておいで」と声が聞こえた。 「失礼します」と言い、引き手に手をかけ開けると、優しく温和な顔つきで笑っている高坂がいた。高坂は、玖月が最も心を許している他人だった。 座ったまま握りこぶしを床について、立て膝で部屋に入り正座をして挨拶をした。 「玖月くん、久しぶりだね。元気だった?今日もランチが一緒に食べれて嬉しいよ。何にしよっか?何が食べたい?」 日本酒を取り扱っている会社の社長だが、意外にも洋食などを食べたがる傾向がある。何しようかなと玖月が考えていると、やはりパスタがいいと高坂が言ってきた。 「かぶとホタテがあったのでクリームソースのパスタにしましょうか?トマトソースとか、和風の方がいいですか?」 「玖月くんのオススメがいいな。かぶにしよう。楽しみに待ってるよ」 いつも玖月の提案がいいと言ってくれて、笑っている。そんな高坂が玖月は好きだった。 結局、パスタの他にキッシュやサラダも作ったりして豪華なランチが仕上がった。 ここの冷蔵庫はいつも、食材が新鮮で豊富なので作り甲斐が多いにある。そういえば、岸谷の家の冷蔵庫も食材は豊富に入っているのを思い出す。お金持ちの家の冷蔵庫は似ているなぁと玖月は頭の中で呟く。 高坂はワインを飲んでいるが、玖月は断った。この後、ひまるの散歩も控えているし、岸谷の部屋の掃除もある。今日の仕事はまだ終わりではない。 「美味しい。いつも玖月くんのご飯は美味しくて元気が出るよ。ありがとう」 「そう言ってくださって嬉しいです。僕も高坂さんと食事するのが楽しみなんです」 ふふふと笑う玖月を高坂がジッと見ている。何だろうと首を傾げて玖月も見ていた。 「玖月くん、すごく元気そうだし、楽しそうだけど、最近何かあった?変わったことある?症状は落ち着いてるの?」 高坂がニコニコして玖月に問いかける。自分では気がつかないが変わったのだろうか。高坂は玖月の潔癖症を知っているから、心置きなく話が出来る。 「最近ですか?うーん、そうですね。犬を預かってるというか…犬とちょっとだけ一緒に生活しています。初めてだったんですけど、犬だと潔癖症が出ないんです。全く大丈夫で…」 「ほぅ…犬ね。そりゃあ良かったな。犬は可愛いよね。僕もね昔、犬飼ってたんだよ」 「ええっ!本当ですか?今一緒にいる犬は大型犬なんですけど、まだ子供で遊びたがって甘えん坊なんです。散歩とか行ってるんですけど、十分足りてるのかなって、心配なんです」 「大型犬は犬種にもよるけどイタズラ好きが多いからな。いっぱい遊んであげると満足するよ。甘えん坊は可愛いよね」 「そうなんです。可愛いんですけど、イタズラっ子だからこの前はお酒の瓶に突進して行ったり…あ、あとタオルで遊んでてビリビリにしちゃうんですよ、あの二人。今週なんてもう3枚のタオルを雑巾にしました」 「二人?」 「あっ、いえ、一匹です」 間違えて岸谷も入れてしまった。岸谷とひまるは似ているからいつも心の中では、「この二人は…」と思っているのが出てしまったようだ。 「なるほど。楽しそうでなによりだよ。玖月くんが嬉しそうにしていると、僕も嬉しいよ。症状が落ち着いていて良かったね」 高坂の家はゆっくりとしているので、ご飯を食べながら話をしていると気持ちが落ち着いてくる。何年もこの仕事をしていて玖月自身も高坂に救われていた。 「あの…前は、楽しそうにしてなかったですか?僕」 「あはは。うーん、そうだね。ちょっと前は元気なかったかな。プライベートで何かあったのかなと思ってたけど、今日元気そうでよかったよ」 やっぱり、高坂には見られている。ちょっと前は彼女と別れた頃だ。プライベートの疲れが顔に出るようではダメだなと反省する。 「反省してる?しなくていいんだけどなぁ。楽しくても、元気がない時でも、それが明日の糧になるんだから。まぁ、出来れば楽しく過ごしてもらいたいと思ってるけどね」 「いいんでしょうか…僕はいつになっても半人前で、潔癖症だし、ややこしいマイルールがあるから人を傷つけてしまうこともあるのに」 「マイルールなんてもんは、みんな持ってるんだよ。君のは表に出ていて、目に見えることが多いだけで、僕も似たようなのは持ってるし、形が違うだけでみんなあるんじゃないかな。それに、少なくとも僕は玖月くんとこうやって食事をしていれば幸せだし、いつも君に会えるのを楽しみにしてるんだよ」 いつもそうだ。高坂は元気にさせてくれる。見た目もダンディであるから、陽子はお父さんというと失礼だと言うが、玖月は高坂を父親とダブらせて見ているところがある。会うと元気になり、話をすると安心する。 「僕は高坂さんが唯一の心を許せる人です」 「ほぅ…そう言ってくれると、嬉しいねぇ」 ニコニコと笑っている格好いい紳士とランチを終えた。

ともだちにシェアしよう!