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第11話 玖月

今日の高坂とのランチは少し豪華だったので、いつもより時間がかかってしまった。 ホームベーカリーで使うドライイーストを買おうと、帰り道にスーパーに寄るつもりだったが、時間がないので急いで岸谷の家に戻った。 ひまるの散歩に行かなくてはと思い、ドアを開けたが、家の中にひまるはいなかった。 犬がひとりでエレベーターに乗ってどこかに行ってしまうわけではないのはわかっているが、ひまるがいないので慌ててしまう。 「ひーくん!どこ?」 全ての部屋やバスルームなど見て回ってもいない。部屋を飛び出し、外のドッグランを探し回ったが見つからない。 ひまると散歩に行く道や、いつもひまるが気になって立ち止まる花壇など、地面に手をつき探し回ったが見つからない。 どうしよう、とりあえず岸谷に連絡をしなくてはと、マンションの下から電話をかけてみた。数回コールして繋がった。 「優佑さん?どうしよう、ひーくんがいなくなっちゃったんです。どうしよう…優佑さん…」 心臓がバクバクと音を立てている。ひまるがいなくなってしまったなんて、どうしたらいいのだろう。岸谷に電話をしていても気が気ではないので、会話も上の空になってしまう。 「玖月、どうした大丈夫か?あれ?外にいる?おーい」 「優佑さん…どうしよう。ひーくんが…」 岸谷と通話をしている電話口で犬の鳴き声が聞こえる。耳を澄ませていると、おおーいと呼ぶ声が玖月の背中の方から聞こえてきた。 振り向くと、リードをつけたひまるが尻尾をフリフリさせて「ワンっ」と元気に吠えている。岸谷も一緒だ。 「ひーくん!」 「ワンっ」 玖月が駆け出すと、岸谷はリードを離して、ひまるを自由にしてくれた。 岸谷の手から離れたひまるは、玖月に向かって一直線に走ってくる。 ひまるが玖月の胸に飛び込んできたので、思わず玖月もぎゅっと抱きしめた。膝を地面に擦った感じがあったが、それどころではなかった。 「…おい、大丈夫か?10年ぶりの感動の再会みたいな感じになってるぞ?」 「優佑さん!ひーくんを連れて行くんならひとこと言って下さい。心配しました!」 「ええーっ、俺、メッセージ送ったぞ?会社から帰ってきて、ひまるを散歩に連れて行くって」 「…うそ」 本当だった。 玖月は急いでいたのでメッセージを見ていなかったが、岸谷からのメッセージは玖月のスマートフォンに届いていた。しかもメッセージは、ひまるの写真付きだ。 「すいません…」 勝手にいなくなったと思って焦ってしまったようだ。ひまるのことになると必死になるのか、玖月は潔癖症を忘れ、手袋もしていなく、両膝を地面についていた。 「玖月、立てる?腕を触ってもいい?」 安心したら足に力が入らなくなったようだ。こんなことは初めてだ。岸谷に支えられて、やっと玖月は立ち上がった。そのまま岸谷が玖月の肩を抱えて歩き始めるので、隣に並び抱えられるように一緒に歩き始めた。 「ごめんな。驚いたよな、俺が悪かった」 長身の岸谷が背を屈めて玖月の耳元で呟いていた。まだ肩に腕を回し抱きかかえられるような格好で歩いている。身体が大きい岸谷だから、玖月はすっぽりと彼の腕の中に入ってしまうほどだった。ひまるは、ご機嫌なようで、岸谷の横にピッタリとくっつき歩いており、たまに玖月の方を見上げている。 コンシェルジュに岸谷が軽く挨拶をしてペイントハウスまでエレベーターで上がっていく。やっと家に帰って来れた。ひまるも岸谷も一緒だ。よかった。急に安堵感が広がる。 玄関では岸谷がひまるの足と体を拭き、ブラッシングをして部屋にあげている。玖月のお願いした通りにやってくれているんだなと、ぼうっと眺めていた。すると、ひょいと身体が宙に浮く。岸谷に横向きに抱き上げられているんだと、遅れて気がつく。 「えっ?えっ?優佑さん?」 「玖月、気がついてないかも知れないけど、足が震えてるぞ。ちょっとだけ許せ」 そのままリビングのソファにポスンと横に寝かされ、ブランケットをかけられる。 「ひまる、おいで。玖月のそばにいてあげろよ?玖月、ちょっと待ってろな」 岸谷はひまるを呼ぶと、理解したのか、ひまるは玖月のそばに座りジッとしている。 頭を撫でてあげると嬉しそうに尻尾をゆらゆらと揺らしていたが、心配そうな顔で玖月を覗いていた。 岸谷は、玖月のマイカップに紅茶を入れ、ひまるには水を入れて持ってきてくれた。 「ひまる、ありがとうな。交代だ」 ひまるは落ち着いて水を飲んでいる。それを眺めていたら、またひょいと玖月は岸谷の膝の上に抱き上げられた。 「玖月、ちょっとだけ許せよ?俺をひまるだと思ってくれ。それでも無理だったら、突き飛ばしてくれていい。足も身体も震えてるからあっためるぞ。なっ?」 ソファの上で岸谷に抱えられ、ブラケットで包まれる。すっぽりと身体全体が抱きしめられているから温かくなる。自分では気が付かなかったが、カタカタと小刻みに震えていた。抱きかかえられると、震えて強張っている身体が少しずつほぐれていく感じがする。 人から抱きしめられるのは初めてだった。 潔癖症なのに笑っちゃうなと、どこかで冷静に自分を見ているが、それよりもマイルールを無視して、身体を岸谷に預けている自分に驚く。 「紅茶飲む?」 温かい紅茶を手渡しされ、飲むとまた落ち着いてきた。お腹の中にゆっくり温かい紅茶が流れていくのがわかった。 溢さないようにと、岸谷が玖月からカップを受け取り、テーブルに置いてくれる。至れり尽くせりで申し訳ないと思いつつ、岸谷のスマートな仕草を無意識に目で追ってしまう。 他人が入れてくれた紅茶を何も考えずに飲んでいる自分にも驚く。マイルールの中には入っていないことだ。岸谷と一緒にいると、ルールが崩れ、簡単に出来ることが多くなっているような気がする。ここに来てからそれはよくわかっていた。 「ひーくんが、ひとりでエレベーターに乗るわけはないのに…すいません」 玖月ひとりで勝手に勘違いしてまった。行動する前に、もっとよく考えればよかったと反省する。 「悪かった。俺が余計なことしたな。驚いたよな、こんなに震えるなんて」 「い、いえ、あっ、すいません。本当に申し訳ございません」 玖月は急に自分の行動を思い返し、ハッとして立ちあがろうとした。仕事中なのに、雇用者にとんだ失態をしてしまったと内心慌て、ザーッと血が引いていく。 「疲れたろ?俺はもう今日は仕事ないし、明日は休みだし、ちょっと寝るか。ひまる、ここおいで。玖月と三人で寝よう。玖月、ずらすぞ。ほら、ここに横になれ」 岸谷は、立ちあがろうとした玖月を軽く止めてひまるを呼ぶ。ひまるはソファまでトコトコと歩いてきたので、岸谷がソファの上に乗せていた。ひまるは、まだちょっと心配そうな顔で玖月を見ている。 玖月は、ひまるを抱っこし、岸谷は後ろから玖月を支えている。広く大きなソファだが、三人で横になるとぴったりとくっつき、少し窮屈だ。だけど、ブランケットをかけられ、岸谷とひまるに包まれてるのは、あったかくて気持ちがいい。 「玖月、犬二匹に囲まれてる感じどう?大丈夫?嫌じゃない?」 「犬二匹じゃないですよ…」 ふわふわとしてきて考えがまとまらない。岸谷の言う通り、疲れているのかもしれない。ひまるのトクトクという心臓の音が玖月に伝わり心地よく、玖月はウトウトとしてきていた。

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