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第12話 玖月

ふわふわとした毛並みにくすぐられ目が覚めた。一瞬ここはどこだろうと考え、すぐに記憶が鮮明に戻ってきてサッと青ざめる。 玖月の前にはひまるが寝ていて、後ろには岸谷が寝ている。すぐにでも起き上がりたいが、ひまるを起こしたくない気持ちもあり、葛藤してしまう。しかし、このままではいられない。どうしようかと考えていると、前後の二人が同時に目覚めたようだ。 ひまるはトンとソファから降りて、伸びをしている。 「玖月、起きた?大丈夫か?」 「だ、だ、だ大丈夫です。すいません」 急に声をかけられたので上擦ってしまった。そしてよく自分の姿を見ると、外から帰ってきたままの格好をしている。よくもまあ潔癖症のくせに、このまま寝ることが出来たと自分自身に変な感心をしてしまう。 「優佑さん、本当にすいませんでした」 まだ動揺しているが、ぴょこんと玖月は起き、立ちあがり岸谷に向かい深々と頭を下げた。岸谷はソファに座り直し大きく伸びをしていた。 「少し潔癖症克服出来たんじゃないのか?ゆっくり眠れたろ。マイルールに追加しろよ。俺もひまると同じ扱いが出来るって」 そう言って、あははと豪快に笑っている岸谷は、立ちあがり突っ立っている玖月の腕を掴み、もう一度ソファに座らせた。 「本当に大丈夫か?」 ポスンとソファに座った玖月の耳元で岸谷が囁くから、咄嗟に振り向き見上げてしまうと真剣な顔をしている岸谷と目があった。 「優佑さんに酷いこと言って、すいません。申し訳ございませんでした。メッセージくれてたのに…僕が外出しちゃったから、ひーくんがいなくなったかと思って。慌てちゃって…本当に…」 自分のダメさ加減と、ひまるがいなくなったらと、想像して改めて落ち込む。 「ちょっと寝たら落ち着くと思ったんだけど。また思い出させちゃったな。ごめん」 そう言って岸谷は玖月を抱き寄せた。さっきは後ろから包まれていたが、今度は岸谷の胸の中に埋もれた。頭を撫でられて不思議とホッと安心する。 「ウウゥゥ…」 ソファの下でひまるが唸り声を上げている。唸り声は初めて聞く。よく見ると、岸谷に向けて唸っているようだ。 「ひまる、俺はいじめてないぞ?ほら、玖月もひまるに向かって言ってくれ。なんで怒ってるんだよ…よく見ろよ、ひまる」 岸谷が呆れたような声を上げている。 「ひーくん、違う違う。僕が勘違いしちゃたから、優佑さんが慰めてくれたんだよ?ほら、大丈夫だから…」 玖月はソファの下で唸っているひまるを撫でまわすが、今度は唸るだけではなく、岸谷に向かって吠え始めている。 「こいつ…ヤキモチ妬いてる」 「え?違いますよ。ひーくんはびっくりしてるんですよ」 「違うな。俺が玖月と仲良くするとヤキモチ妬くんだろう。ほら、見てみろよ」 そう言って、岸谷はひまるに見せつけるように玖月をぎゅっと抱きしめた。すると、ひまるは唸って吠えて大騒ぎし始めた。 「わかったわかった。ほら、ここに来いよ。真ん中に入れてやるから」 ソファの真ん中にひまるが入って来たので、玖月がぎゅっと抱きしめてあげると、落ち着き始め、玖月の手をペロッと舐め始めていた。そういえば、ずっと手袋をしていなかったと、玖月はひまるに舐められて気がついた。 家に帰って来て、手を洗っていた時にひまるがいないことに気がついたから、その後からはずっと手袋はつけていなかった。ひまるを必死に探していたから、気にしていなかったし、まるっきり忘れていた。 外に出る時は必ず手袋をするというマイルールを、これもまた簡単に外すことが出来た。本当に呆気ないほどだった。 「ひまる、邪魔するなよ。さっき遊んでやっただろ?こいつさ、さっきも他の犬に吠えたり唸ったりして大変だったんだぜ。玖月も散歩の時、大変じゃないか?」 「ええ!ひーくんは、おとなしいですよ?吠えたり唸ったりしたのって、今初めて見ました」 「うわぁ…玖月の前では違うんだ…お前中々やるな」 ひまると岸谷が戯れ合っているのを見ている。ブランケットの取り合いが始まろうとしていた。 「今日は驚かせて迷惑かけちゃったから、ひーくんキャベツあげるね?ご飯にしようか」 「俺は?」 「ふふふ…優佑さん、お腹空きましたよね?すぐに何か作りますね。本当にすいませんでした」 「もう大丈夫か?明日は休みだから、今日は飲もうぜ。玖月も付き合ってくれよ。アレ飲むか…」 「えっ!あのシリーズですか?」 週末の夜、初めて二人と一匹で食事が出来そうな予感がした。 ◇ ◇ 世の中の人はこんなことを経験しているのかというのが、率直な感想だった。 自分はいつから出来なくなってしまったんだっけ。それも忘れてしまった。たくさん飲んでるので酔っているからだろうか。 「美味しい!このシリーズのお酒、大好きなんです。これを販売してくれて、ありがとうございますって、ずっと伝えたかったんです」 「あはは。こちらこそ、ありがとうございます。直接お客さまの声が聞けて嬉しいです」 リアルで人と一緒にお酒を飲む、そして一緒に食事をすることがこんなに楽しいと、今日初めて知った。 それにマスク無しで岸谷と過ごすのも初めてであるが、特に何も不快な思いはせず外すことが出来ていた。 岸谷からは、ソファでゆったりとつくろぎながら食事をしようと言われたが、玖月がそれを許さずダイニングテーブルで食事をしている。 だけど、ダイニングテーブルとキッチンは近いため、追加でつまみが作れている。 それがわかった岸谷が「玖月の言う通りだ!ここで食事をして正解だ!」と真面目な顔して言うから、玖月は可笑しくなりケラケラと笑い転げてしまった。 恐らく二人とも酔っているのだろう。たわいもないことで笑い合う。それにさっきから何度も「乾杯!」と言いグラスを重ね合っていた。 二人共アルコールに強く、その中でも日本酒が好きだとわかった。性格は違えど、嗜好は似ている。 今日は結構飲んでいるが、このシリーズの日本酒は比較的低アルコールで飲みやすいから、スイスイとお酒が進んでいく。 酔ってきた岸谷が何か作ってみたいと言い出し、二人でキッチンに入り、玖月指導の元、岸谷が料理を作ったりしていた。 岸谷は包丁を触ったことがないらしく、不器用な動作をして玖月をハラハラとさせている。岸谷本人はそんな玖月を見て笑っていた。 「優佑さん、世の中のみなさんはこんなに楽しく飲んだり食べたりしてるんですね。僕、こんな楽しいの初めてかも…」 「ん?そうだな、人と一緒に飲むのは楽しいよな…で?玖月先生、これでよろしいでしょうか?この後、どうすればいいでしょう…」 「はい!この後は、オーブンに入れましょう!それで出来上がり。簡単なんです」 あはは、と酔ってる二人は笑いながらクラッカーを使ったピザを、キッチンで作っている。 「ひー、料理中はまだマスクしないとダメか…でも大進歩だよな、手袋無しで、俺と一緒に食事が出来て、酒も飲めて。めちゃくちゃ嬉しいから後でまた乾杯しような」 酔っているから岸谷は玖月を『ひー』と呼ぶ。さっき「ひーくんと呼び方が被ります!」と言った時、かなり笑っていたからわざとそう呼んでるんだと思う。 でも、岸谷に揶揄われるのも楽しい。それに幼い頃の呼び方で岸谷に呼ばれるのも、くすぐったいけど、嫌じゃない。 「本当に自分でもすっごく驚いてます。呆気なく手袋外せたし、マスク無しでご飯もお酒も優佑さんと一緒に飲めて嬉しい。でも、料理をする時は、まだ気になっちゃうからキッチンではマスクを付けてます」 「まぁ、いいんじゃないか?急ぐことないしな。後は何がしたい?なんかあるか?スーパーは明日行くだろ?」 二人で色々な話をした。 今日は急いでいたので、ホームベーカリーで使うドライイーストを買って来れなかったと玖月が言ったら、明日の休みにスーパーに一緒に買いに行こうということになった。 初めて岸谷と会ったあのスーパーだ。 それなら、あの時傘を置いてきてしまったので、スーパーの店員さんに聞いてみようということにもなった。 初めて会った時のお互いの印象はあまり良くはなく、岸谷は玖月のことを暗そうな奴が、Let’s party!と書いてある袋を持ってお酒を抱えていたのが可笑しかったと言う。 玖月は岸谷のことを、急に傘を投げつけた失礼な人と思っていたと、告白し合い、二人でゲラゲラと大笑いした。何を話しても岸谷とだと楽しい。 それと、お互いの恋愛話をした。 岸谷は意外とドライなタイプで、恋愛では深く傷つきもしなければ、別れる時は追いかけることもしないと言う。普通の人はそんなものなのかと、ふんふんと相槌を打って玖月は詳しく聞いていた。 玖月の恋愛話を岸谷が聞きたがるので教えると、岸谷は爆笑し笑いが止まらなかった。 キスをする前にマウスウォッシュをするというのが可笑しくてツボに入ったようだ。 「やっぱり失礼な人だ」と玖月が言うと、「ごめんごめん」と言いながらも笑いが止まらない岸谷に向かって、急にひまるが吠えまくっていた。 そんなひまるを見てまた二人で可笑しくなり、ゲラゲラと笑い合ってしまった。二人の距離が急激に近づいたと感じた。 まだピザは焼けない。 オーブンの中を覗き込むともう少しかなといったところだった。焦げ目がついた方がピザは美味しそうだし。キッチンで二人はオーブンを見つめ待つ。 玖月が覗き込むと、岸谷もつられてオーブンの中を覗きこんでいる。無意識に同じ行動をとっているようだ。気がつかなかっただけで、今までもそんなことがあったのかもしれない。 「何かなぁ…僕はなにがしたいかな。何でもいいからひとつづつ出来るようになりたい。それで潔癖症が治ればいいなぁ」 明日は何をする?何がしたい?と岸谷聞かれているのに、酔っているからなのか、玖月は何がしたいと聞かれているように思ってしまい、ちょっとズレた回答を返していた。 「じゃあ、マウスウォッシュ無しでキス出来るように?とか?」 ズレた回答でも修正されずに、岸谷は会話を合わせてくれている。 「もう…まだ言ってますね。そうですね、それが出来ればすっごくいいな。普通のことですもんね、それって」 「ひまるとはキス出来るだろ?よく舐められてるし…じゃあ、そしたらさ、マスク越しならいけるんじゃないか?気にならないかもしれないな。うん」 何言ってんだろう、結構酔ってるかなと、岸谷の方を向くのと同時に岸谷に抱きしめられ、マスク越しにキスをされた。 不織布のマスクがカサっと唇に触れる。唇を直接触れ合ってはいないが、岸谷の唇の形は、はっきりと感じられた。それに、岸谷の唇の熱も感じる。マスク越しなのにキスをする感触がわかった。 「…どうだった?嫌だった?」 「えっ?嫌…じゃない、かも…大丈夫だった」 咄嗟のことで訳も分からず答えた。 「そうか!よかったな」 ピーッと、オーブンから音が聞こえる。 ピザが焼けたようだ。

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