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第18話 玖月

ペイントハウスは広い家とはいえ、リビングから玖月のベッドルームまでは、そこまで遠く離れていない。酔って歩いていてもすぐに到着する距離だ。 だが、岸谷に手を引かれて歩き始め、玖月はベッドルームの近くまで来たら急に酔いが覚めてきた。 手を繋いで歩いているという現実が襲ってきて、恥ずかしくなった。手袋をしていない自分の手や指先に全神経が集中し、心臓のようにドクドクと脈を打っているのがわかる。 その繋いでいる自分の手をチラッと見ると岸谷の大きな手に覆われており、今度は本当の心臓の方がドキッと大きく波を打った。心臓の位置が移動しているようで忙しい。 心拍数を焦って数えているうちにドアの前に到着していた。 「…えっと、ありがとう…ございます」 「…ああ、うん。遅くまでごめんな、付き合わせちゃって」 ドアを背に立って向き合うように話をしているが、部屋に入るタイミングが見つからない。目の前にいる岸谷も酔いが覚めてきたように見える。 言葉も一言二言を交わすだけで、会話が続かない。今までスラスラと言葉を交わし合い、クスクスとずっと笑い合っていたのに、ドアの前に来たら二人は急にたどたどしくなってしまった。 「あの、」 「えっと、」 同時に言葉を発して譲り合ってしまう。最終的に玖月が「どうぞ」と岸谷に譲った。 「えっと…あっ、明日のパンって何時に出来上がるんだっけ?」 「ああ、あの…えっと、そうですね、朝8時かな…タイマーにしたので8時に出来上がります」 「じゃあ、その頃キッチンに行こうかな」 「あ、僕もパンが焼き上がるから、その時間にはキッチンに行ってます」 「じゃあ…」といいそのまま玖月はドアを開けて部屋に入った。入った後「おやすみ」と岸谷に声をかけられたので、ドアを閉める隙間から「おやすみなさい」と玖月も声をかけた。岸谷に見つめられながらドアを閉めたが、何故か心臓がドキドキとしていた。 部屋に入り鏡を見ると、ピッタリと横分けになりおでこ丸出しの自分が映っていた。 こんなに髪を撫でられたのは、子供の頃以来だが、撫でられるのは気持ちが良かったと、岸谷の手を思い出しながら玖月は前髪を自分で撫でてみる。 ドアの前まで送ってくれた岸谷と、もう少し一緒にいたいと思ってしまう。離れたくない、まだ話を続けていたい。だけど恥ずかしくて言い出せなかった。引き留める理由も見つからない。 後ろ髪を引かれるとはこういうことなのだろうか。もしかしたら、ドアの前でキスをされるかもしれないとも思っていた。 岸谷からはよくキスをされ、抱きしめられる。ひまるがいなくなったと玖月が勘違いした日から、スキンシップが多くなり、距離が縮んだ。今日は食事も一緒にし、お酒も楽しく飲めた。岸谷のプライベートや仕事の話も聞けて、人柄や野心など理解出来ていた。そんな岸谷にどんどん心を開いていくのが自分でもよくわかる。 ドアの前ではキスをされなかった。 よく考えると今はマスクをしていなかったので、キスはしないのかと、ガッカリしている自分がいた。 何を期待していたんだろう。ここで生活を始めてから自分の心がよくわからない。そもそも、何故岸谷はマスクの上からキスをするのだろうか。マスク越しだと嫌ではないという玖月の言葉から、潔癖症から救うために、慣れるようにと、リハビリを身体を張って実践してくれているのだろうか。ひまると同じように戯れついているだけなのだろうか。 考えるとキリがないが、部屋着のままベッドに横になり玖月は色々と思い出し、考え始めた。部屋着を着たままベッドに横になるのは、マイルールだとNGになっている。ベッドには裸で入るとマイルールが決めているからだ。 本当は一刻も早く歯磨きをし、寝る準備をしなくてはならないのに、どれひとつ出来もせず、ただベッドに横になって考え込んで動けなくなっている。 一度考え始めると止まらなくなった。今日一日のことを思い出してしまう。長いようで短い一日だった。そして何より、楽しく笑い合った一日だった。 それとなんだろう。 この甘く、さわさわと気持ちが落ち着かない感じは。 胸をくすぐるような、胸に迫るようなものがあるのに、時折、胸の真ん中がギュッと締めつけられる痛みも感じる。 それに岸谷に対しては、恥ずかしく顔を見ないで欲しいと思う時もあれば、楽しくてしがみつきたい衝動に駆られる時もあったりする。 繋いだ手は大きかった。 マスクの上から重なる唇は熱かった。 さっきこの部屋のドアを閉める時は、心臓が驚くほど速くなり、壊れるかと思うほどだったが、ドアを閉めて岸谷が目の前からいなくなったら、今度は胸の真ん中が痛くなった。 早く寝なくちゃと思えば思うほど身体が動かず、玖月はベッドの上で丸くなり、すっかり酔いは覚めてしまっていた。 ◇ ◇ 「ひーくん、ちょっと待っててね」 あの日以来、毎晩玖月のベッドルームまで岸谷が送ってくれるようになった。同じ家の中で送ってもらうなんておかしな話だ。それでも「送るよ」と言われると、頷いてしまう。二人の特別なルールのようだった。 毎日、岸谷に手を繋がれ二人共話が途切れず笑い合ってベッドルームのドア前まで来るが、部屋の前では何故かお互いちょっと無言になり「また明日、おやすみ」と挨拶を交わし、玖月がドアを閉める。 ドアを閉めた前で、向こう側にいる岸谷の足音が部屋の前から遠ざかっていくのを耳を澄まして聞いている。 もう部屋の前からいなくなっちゃったかと、少し寂しく思うが、玖月の一日はこれで終了なので、部屋着を脱ぎ捨てベッドに潜り込んで眠る。 そして相変わらず、胸の真ん中がたまにギュッと掴まれるような感じがしている。 そんな、おかしなルーティンができてしまったが、岸谷の家で家事代行の仕事をすることにも慣れてきた。 先週、岸谷の妹である彩が、元気な男の子を無事出産したと報告があった。ただ、まだ旦那さんの骨折が治っていないので、ひまるは引き続き岸谷の家で生活している。よって、玖月の仕事も継続中というわけだ。 「よし、じゃあ、散歩に行こう」 今日は平日なのでドックランに来ている人も少ない。こんな日は、ひまると思いっきり遊べる。天気もいいし、たくさん走り回って遊んであげるとひまるは喜ぶ。嬉しそうにして尻尾をブンブン振っているのが、可愛らしい。 朝、岸谷が出勤した後の玖月は、家事代行サービスのデスクワークを行い、その後はひまると散歩をする。 散歩から帰ってからは、岸谷の家の掃除をして、夜ご飯を作っていると岸谷が帰ってくる。 最近は、大体同じ時間に岸谷は帰ってくる。仕事は忙しそうだが、家に帰る時間は決めていると言っていたから、そうなるのだろう。 「ひーくん、帰ろ!喉乾いたよね」 ワンっと声を上げるひまるの頭をグリグリと撫でて、ペイントハウスまでエレベーターを上がっていく。 途中で携帯がブルッと震えたので確認すると、陽子からのメッセージだった。部屋についてからゆっくり確認しようと、そのまま携帯をしまった。家に到着すると、いつものマイルールルーティンをこなしていく。 「ひーくん、お水ね」 ひまるが美味しいそうに水を飲んでいる間に、陽子からのメッセージを開き確認した。そこには、玖月が配置した家事代行サービスの派遣スタッフのことが書かれている。メッセージを見たら一旦連絡が欲しいというので、電話をかけることにした。 数回コール音が鳴り、陽子が電話に出た。 「陽子さん?メッセージ見たよ。どうしたの?」 「ああ、玖月。今、大丈夫?メッセージに送った水口さんってうちのスタッフの方、今日、平林さんのところに派遣した?」 「ああ、えーっと、したと思う。ちょっと待って」 パタパタとベッドルームまで走り、パソコンをダイニングテーブルまで持ってきて、つなげる。 玖月の仕事は、家事代行スタッフを派遣先のお客様宅へブッキングすることだ。依頼内容を確認して、その内容に合うスタッフを探して派遣している。 事務作業なので、特にお客様や派遣スタッフと顔合わせすることはなく、とにかくブッキングし、双方にメールで連絡するだけだが、最近は家事代行依頼が以前より更に多くなり、マッチングさせる企業とスタッフの数は増えて、処理件数も多くなっていた。 派遣スタッフの採用は採用担当、お客様からの依頼は営業担当に任せている。それぞれの契約に問題はないようだが、陽子はかなり慌てていた。 「依頼内容みた?間違えてない?」 「うん…今、内容見てるけど…」 パソコンを立ち上げてお客様の依頼内容を確認した。『平日の掃除希望、週に3回』が内容だ。至って普通の家事代行だった。 派遣スタッフの方は、水口という者だが、 仕事でのトラブルはなく、時間にルーズでもない。こちらも特に問題はないように思える。 「掃除希望だし、週に3回だし、今日が初でしょ?水口さんは特に問題ないと思うけど…何?なにがあった?」 「それがね、依頼内容と違うって激怒されて、水口さんは途中で帰されたのよ。依頼先は平林さんって、ほら、あのドラマに出てた俳優さんでしょ?事務所よりも平林さん本人が相当怒ってるらしくって…それで原因が知りたいんだけど、契約内容が今、私の手元にないのよ」 あのドラマと陽子がいうのは、最近も話題になっていた恋愛ドラマで、陽子も玖月も録画して見ていたので、よく知っている。そのドラマに出ていた主人公が平林だった。巷ではイケメン俳優と言われている。 陽子と話をしながらもう一度依頼書を確認する。コメント欄に、『派遣スタッフは男性もしくは、女性の場合は年齢40歳以上』と書いてあるのを目にした。 「陽子さん、わかった!僕がコメント欄見落とした。派遣スタッフは男性もしくは、女性の場合は年齢40歳以上って書いてある。水口さんは20代の女性だからNGだったんだ。これだ、ごめん!すいません、見落としてしまいました」 ああ…と陽子の絶望的な声が聞こえる。 やってしまった。致命的なミスを犯してしまった。見落とすなんて凡ミスもいいところだ。 「そっか。平林さんは、芸能人だから多分、自宅に若い女性の出入りがあると、目立って嫌なんだと思う。だから年齢の依頼が入っていたんでしょう。非常に神経質になってる人みたいだから、事務所も大手だし、こりゃ明日謝罪に行かないとダメだわ。ああ…私と知尋が今、福岡なのよ。明日の朝イチは無理か…一度営業担当に行ってもらうか」 事務作業はいつものことだと思って、流れ作業になっていたのかもしれない。慎重にならなかったのかもと、玖月は自分のミスを認め青ざめる。 仕事で見落としをするなんてあってはならないことだ。こんなこと、今までは一度もなかった。責任感が足りないのだろうか。 集中力がないのだろうか。いずれにしても、取り返しがつかない。 仕事なのに岸谷の家で楽しく暮らし、ひまるの世話も楽しんでいたところもある。浮かれて、浮ついていたんだろう。 「とりあえず理由はわかったわ。ありがとう、また連絡するから…」 「待って!陽子さん、僕が謝罪に行きます。僕の責任です」 陽子と知尋は福岡に出張中という。そのため、明日の朝一番に謝罪に行くのは玖月が行くのがいいだろう。スタッフの配置を任されている自分がミスをしたのだから、謝罪しに行き、依頼があった掃除をしてくると陽子に玖月は申し出た。 「でも、あんた潔癖症じゃない。他人の家に入るのは難しいでしょ?謝罪に行く途中で体調悪くしたら、それは心配しちゃうし、相手にもまた迷惑かけちゃわよ」 「大丈夫、潔癖症の症状は最近出てないし、仕事だから行けるよ。岸谷さんのところで住み込みだって出来てるし。お願い、行かせてください。僕のミスなので出向いて本人に謝ってきます」 玖月が陽子に必死にお願いをしていたが、電話口の声が急に知尋に代わった。陽子と共に出張中と言っていたから、隣で話を聞いていたんだろう。 「玖月、俺だ。お前が行くっていうのか?もし、お前が行って相手先で何かまたあったら二重のクレームになるんだぞ。会社は信用を無くすことになる。だからダメだ」 「お願いです。行かせてください。明日の朝に平林さんのところに行って謝罪してきます。潔癖症は大丈夫です。最近、症状は出てないから。それに僕は月一回、高坂さんの家に行って家事代行の仕事してるでしょ?それと同じスケジュールだったら岸谷さんにも失礼ないでしょ?明日の朝、平林さんの家に行って謝罪して、帰ってきたら岸谷さんの家の家事代行をする。岸谷さんにも簡単に事情は伝えておくから」 月一回、外に出て高坂の家の家事代行をしている。それは岸谷も知っているし、玖月の家事代行サービス契約の中にも入っていることだった。 同じようなスケジュールで動けば、岸谷に迷惑はかからなく、ひまるにも負担をかけることはないはずだ。 それに、理由を伝えれば岸谷ならわかってくれると玖月は思っていた。 必死になって知尋にも訴えかけた。いつも知尋は玖月に仕事を与えてくれている。それなのに、ミスをしてしまった。また陽子や知尋に迷惑をかけてしまう。いつになっても半人前だ。足を引っ張ってばかりだとまた考えてしまう。 電話をしている玖月がいつもと違うと感じて、ひまるが心配そうな顔で近づいてくる。テーブルに座る玖月の足にひまるは鼻を擦り付けている。 「…わかった。じゃあ、玖月に任せることにする。先方には一旦連絡をしておくから、明日行けるように準備しとけよ。途中で行けなくなったは、ないからな」 「わかりました。ありがとうございます。場所と時間の連絡待ってます。本当にすいません。申し訳ございませんでした」 渋々だが、知尋からOKをもらい、平林の家に謝罪に行くことになった。

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