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第20話 玖月

「よし、頑張ってこい」 ペイントハウスの玄関まで見送られる。岸谷の足元では、ひまるが玖月に向かいジャンプして戯れついてくる。玖月が出かけるのがわかり、散歩に連れて行ってくれると思っているようだ。 「ひーくん、ごめんね。お散歩じゃないんだ。じゃあ…優佑さん、帰ってきたら掃除とご飯作りますね」 ひまるをぐりぐりと思いっきり撫でてあげる。 「いいよ、うちの家事代行は今日休みにしたろ?掃除は俺が後でやっておくから。ひまると散歩も行ってくるし、こっちは心配するな」 いってきますと言いドアを閉める。いつもは、岸谷を見送る側だから、見送られると変な感じがする。 外はいい天気だ。今の季節は気持ちがいい。手袋にマスク姿だが、外を歩くと清々しい気持ちになった。昨日、岸谷からアドバイスをもらってから、気持ちが前向きになっているのが続いている。 平林の家はここから電車で二駅隣だ。すぐに到着するだろう。 二駅隣の駅を出て、すぐ目の前にあるタワーマンションに住んでいるといわれていた。この辺も高級マンションばかりで治安は悪くない。タワーマンションの家賃はびっくりするほど高いだろうが、住み心地は良さそうだった。 駅を降りると、平林のマンションはすぐに見つかり、そのまま彼の部屋までも迷うことなくスムーズに見つかった。 コンシェルジュに通してもらい、部屋のインターフォンで、家事代行サービスの者だと伝え、返事はもらったものの、中々入れてはくれず、ドアの前で待たされてしまった。 手袋を外し、いつでも挨拶が出来るように準備はしている。玖月は岸谷に言われたことを、ひとつずつ思い出していた。 「どうぞ…」 平林本人が無愛想な表情を作りながら、ドアを開けてくれた。 失礼しますと言い、ドアの中に入れてもらう。心臓がドクドクと激しく打ちつけ、足がすくんでしまうが、玖月は踏ん張ってマスクの中で深呼吸をした。 「初めまして、荒木家事代行サービスの荒木玖月と申します。この度は大きな手違いをしてしまい、平林様には大変ご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございませんでした」 名刺を手渡しし、そのまま深々とお辞儀をする。昨日の今日のため、平林はまだ怒っているようだった。 部屋に入ってと言われたので、新しい靴下に履き替えて部屋に上がる。その間にも平林からことごとく、昨日派遣したスタッフのダメ出しをされ、依頼書の内容確認が出来ていないと繰り返し言われた。 テーブルに座るように促され、そのまま対面でお叱りを受けることになった。 何故、年齢の希望や男性の希望を入れたかわかるか、若い女性の出入りが目立つ可能性があるのはわかるだろうという言葉に、申し訳ございませんと、ひたすら謝罪の言葉を返す。中々、平林の怒りは収まらず、昨日を思い出しては、時折り怒鳴られてしまうこともあった。 「…で、どうするの?これから」 「はい、平林様のご希望に合うスタッフを派遣させていただきたいと思っております。40歳以上の女性スタッフはベテランが大勢おりますので…」 「昨日やってもらいたかった掃除は?どうすんの?」 玖月の言葉を遮って平林はイライラしながら言った。それでも、そう言われるのは想定内である。昨日、岸谷と作戦会議をして考えていてよかった。 「よろしければ、今から私が行ってもよろしいでしょうか」 掃除の希望はバスルームだった。それは依頼書に書いてある。ここに来る前に、掃除グッズは準備して持ってきてある。 「すぐにやって!時間はあまりないから」 バスルームまで案内されたので、玖月はテキパキとし、丁寧に掃除を始めた。 平林の家の中は掃除をする必要がない程であった。リビングも掃除が行き届いている。 それが、バスルームは違った。ずっと掃除をしていないであろうことがわかるほどであった。 水回りの掃除が苦手な人がいるので、平林もきっとそうなのだろう。しかし、この辺の掃除は玖月の得意分野だった。バスルームでもキッチンでも、ピカピカにするのが得意で好きだ。 短時間でバスルームの掃除を終える。リビングにいる平林に声をかけ、バスルームの掃除をチェックしてもらった。 「…ふーん。あんた意外とやるんだね。ここのバスルーム酷かったでしょ。どうしても苦手なんだよね、バスルームって」 「あの…他に掃除するところありますか?キッチンとかでしょうか」 「えっ?キッチンもいいの?あっ、こっち、来て!」 ぐいぐいと腕を引っ張られてキッチンに連れて行かれる。平林は玖月と同じくらいの背格好で、テレビの中ではイケメン俳優といわれている。 自宅でプライベートの姿になる平林は、年相応であるが神経質そうな印象があった。 キッチンには食べ残しやお菓子、インスタントなどがそのまま置いてある。やはり、水回りの掃除が苦手なようであった。 「お時間大丈夫でしょうか?」 「どれくらいで出来る?」 「30分は、かかりません」 へぇ…じゃあやって、と言われたので、また一心不乱に掃除を開始する。時間に限りがあるとわかると、また気持ちにスイッチが入り、玖月は効率的に仕事を進めようと張り切って掃除を始める。 ゴミをまとめてキッチン周りの掃除も終了となった。平林からは特に何も言わなかったから、全体の掃除は合格していると思う。改めてテーブルに座るように平林に言われ、対面で話を始めた。 「平林様、本当にこの度は申し訳ございませんでした」 改めて玖月が謝罪すると、平林は、もういいよと、ため息をつき言っていた。 「これからさ、あんたが来てくれない?掃除は必要なんだ。バスルームとキッチン、それと玄関の掃除は苦手。リビングの掃除は、なんとか出来るけど…」 「ありがとうございます。しかし、私は現在家事代行のスタッフではなく、スタッフをお客様の元へ派遣する、人材コーディネーターをしております。私が直接お伺いし家事代行をすることは出来ません」 昨日、岸谷に「毅然とした態度でいろ」と言われた通りにする。座っているが、緊張から足が震えてきていた。 自分は掃除に来ることは出来ないが、同じように丁寧で、平林の希望に合うスタッフを派遣することは出来る。 そのために、ヒアリングをしスタッフを派遣した後のケアやフォローをすると、玖月は平林に提案をした。 それでも玖月に来て欲しいと平林は言っていたが、玖月も折れることなく、優秀なスタッフを必ず派遣すると伝え、最後には「わかった」と平林は納得してくれた。 「平林様、お忙しいところお時間いただき、本当にありがとうございました。すぐにまたご連絡いたします」 そう言って、帰り支度をしゴミを手に玄関まで行く。後ろにいる平林は何か言いたそうにしていた。 「バスルームの掃除さ…ほんっとにダメなんだよね。掃除したくなくて、だから汚くなって限界になると、引っ越しばっかりしていたんだ。あのヌメヌメっとした感じ、触りたくもない。だけど、お風呂には入りたいし…だから、限界まで放置しててさ、昨日掃除してくれると思ったのに、女の人が来て…掃除出来なかったからストレスが溜まってて。怒鳴ってごめんね。昨日の人にも謝っといてよ」 「平林様…そうだったんですね。こちらこそ本当に失礼いたしました。あのヌメヌメは、目に入るだけでストレスが溜まりますよね。わかりました。毎日快適に過ごしていただけるように、全力を尽くします。お話いただきありがとうございます。本日中にメールで一旦ご連絡いたします。他に何かあればご連絡ください。またお伺いいたしますので」 ありがとうと平林から言われ、最後には笑顔で見送ってくれた。 玖月はまた最後に深々とお辞儀をし、玄関のドアを閉めた。 岸谷の言う通りだ。 対面で話をして初めてわかることがあった。人によっては大したことないと思う問題でも、当の本人には大問題なこともある。話を聞くことは非常に重要で、相手と打ち解けるきっかけにもなるとわかった。 早く会いたい。 岸谷に会いたい。 相手に気持ちが伝わった、相手の気持ちが痛いほど理解できた、その全てを岸谷に伝えたい。 毅然とした態度を取ること、お客様にヒアリングする必要性、岸谷からもらった的確なアドバイスのおかげで、落ち着いて謝罪ができ、円滑に話が進んだと感じる。 しかも、今日の行動は玖月自身、仕事に対する自信にも繋がった。 平林のマンションのゴミ置き場にゴミを捨てて、玖月は急いで岸谷の家に帰ることにした。 駆け足で駅に向かう。1秒でも早く岸谷に会いたいという気持ちが抑えられない。 ドキドキという心臓の音が身体から聞こえる。身体の中を音が駆け巡っているようだ。 改札を抜ける時、手袋をしていない自分に気がついた。もう何とも思わなかった。 家に着いたら何から話をしようか。伝えたいことを指折り数えながら、玖月は帰り道を急いだ。

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