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第21話 玖月

平林の家からの帰り道、電車の中で『今、終わりました』と、岸谷にスマホからメッセージを送ろうとした。 だが冷静になって考えてみると、今日は岸谷は在宅ワークに切り替えると言っていたことを思い出す。 岸谷の仕事の邪魔はしたくないから、メッセージは送らずそのまま帰宅することにした。 送りかけていたメッセージを消し、メッセージアプリを閉じた後、SNSのアプリを開く。 岸谷のSNSを覗いてみると、『頑張れよ』というコメントが入った昨日の味噌汁の写真がアップされていた。 岸谷から玖月に向けてのコメントだとわかる。マスクの中で笑いながらそのコメントに『いいね』を押した。 最近、二人はお互いのSNSアカウントで頻繁に写真をアップして、メッセージを送り合う遊びをしている。 きっかけは、岸谷が会社から『腹減った』というコメントと一緒にコーヒーの写真をアップしたことだった。 『腹減った』の写真を見た玖月は、自分のアカウントにメモ書きした夜ご飯の献立をアップしてみたら、岸谷からすぐに『いいね』が返ってきた。 その日の夜は、玖月がSNSにアップした献立通りに作った料理を岸谷が写真に撮り『ごちそうさま。今日も美味かった』というコメントと一緒にアップをしていた。 その日以来、『腹減った』というコメント付きの写真は二人の間で合図となり、玖月はご飯の献立を、岸谷はその料理をSNSにアップするようになった。 夜寝る前も『おやすみ』と岸谷がひまるの写真をアップすれば『おやすみなさい』と、玖月の方も夜空の写真をアップする。そこでもまた、それぞれの写真にお互いが『いいね』を送り合っていた。 二人だけの密かな遊びだった。 週末には二人でキッチンに入り料理をし、お酒を一緒に飲むことが日常となり、玖月が作る料理や二人の好きなお酒などを、それぞれのSNSにコメント付きでアップする遊びをしている。 連絡方法として使うには、お互いのSNSを確認し合うのは手間で面倒だ。メッセージアプリの個人IDをお互い知っているのだから、そこから相手に直接メッセージを送れば早いし確実である。 だけど、至急の連絡ではないため、手間で面倒なSNSの遊びが楽しく嬉しい。 それに用もないのに連絡をするという間柄、所謂友達ではない。夜寝る前にわざわざ『おやすみなさい』なんて直接メッセージアプリから送ることは出来ない。 毎日同じ家で生活し、夕飯も共にし会話も十分あるが、周りの誰も気が付かないこの遊びを、毎日続けている。 お互い時間が空いた時に確認し合い、自分に向けて送ったであろうメッセージを読みクスッと笑う。 気になるから確認する頻度も高くなり、送り合うペースも日に日に増えていく。 他の人が見ても意味もわからず、スルーするようなメッセージが付いているが、当の本人達にだけはその内容がわかり、なんて返事を返そうかとワクワクさせてくれるような遊びだ。 岸谷のSNSを見ているうちに駅に到着した。家を出た時よりも、もっと空が青く見える。今の自分の気持ちを表しているような青く広い空を写真に撮り『無事、終わりました』と、コメントを付けて玖月はSNSにアップした。 公園を抜けて、ドッグランの前を通り、やっとマンションのコンシェルジュまで到着した。 いつものコンシェルジュに挨拶し、ペイントハウスに上がるエレベーターに向かう。玖月の自宅も同じ建物だが、最近はこっちに出入りする方がスムーズである。 岸谷の家に到着すると、いい匂いがしている。料理中なのだろうか。 岸谷の姿を探しながら部屋の奥に入っていくと「うおぉあ!やべっ」とキッチンから声がする。 リビングを見渡すと、家の中がめちゃくちゃになっている。ひまるが久しぶりに大暴れしたようだ。 ソファに置いてあるクッションから、中綿が飛び出しており、トイレットペーパーとティッシュが部屋中に散乱している。この荒れっぷりから見て、ひまるのイタズラは相当だったとわかる。その大暴れしたひまるは疲れたのか、ソファの上で仰向けになり豪快に寝ていた。 「優佑さん、ただいま戻りました。…大丈夫ですか?」 キッチンにいる岸谷に声をかけたが、振り向いて玖月を見る岸谷の顔には『ヤバイ』と書いてある。 「お仕事はどうしたんですか?在宅ワークじゃなくて?料理してたんですね。すぐにシャワー浴びてきますから」 リビングは、初めて岸谷の家に来た時以来の散らかりようである。何があったんだと考えながら、玖月は急いでシャワーを浴び、キッチンに戻った。 キッチンに岸谷の姿はなく、料理も作り終えているようだ。岸谷を探すとリビングで片付けていた。 「優佑さん?」 「今朝、あの後ひまるが走り回っちゃって…あいつに構ってやれなくてさ。ごめん、またやっちゃった。玖月が帰ってくる前に掃除を終わらそうとしてたんだけど…」 一緒にリビングを片付けながら話を聞く。どうやら、玖月が家を出た後、散歩に行けなかったのが不満だったひまるは、リビングでおもいっきり走り回ったようである。 玖月が外出する時、ひまるも一緒に外に行くと思っていたのだろう。それが、玖月だけ行ってしまったから、ひまるの不満が爆発したようだ。 朝の会議をオンラインで参加し、その後リビングにきたら、めちゃくちゃにされていたと岸谷は言う。ひまるがトイレットペーパーを見つけ、リビングに撒き散らし、ペーパーを引き裂いて遊んでいたようだ。クッションには噛み付いた跡がいくつもある。 岸谷はこの前のひまるのように、しゅんとして「ごめん。玖月がいない間にめちゃくちゃにしてしまった」と言っている。大きな身体の岸谷がしゅんとしている姿に胸がギュッとなる。 「飯を作って、掃除してって考えてたのに、コイツのイタズラが止まらなくてさ。もうここまでされたから、先に飯だなと思って部屋の片付けは後回しにしてたんだ」 ひまるの方を見てそう言う岸谷が微笑ましくなる。初めて見た時は驚いたが、二人戯れ合う行動は嫌いじゃない。どんなことをしたのか、見ていたかったなと玖月は思い、クスッと笑った。 「お仕事は?どうしたんですか?今から出勤しては間に合いませんか?ここは僕がやっておきますから」 「朝に打ち合わせしたから、今日はもう無し、大丈夫。それは問題ないよ」 いくつものトイレットペーパーとティッシュがリビング中に撒き散らかされているから、一見派手にやられたと見えるが何かを溢されたりはしていないから思ったり早く片付けが終わりそうだ。 ひまるのイタズラに岸谷が焦っていたであろうその行動が想像でき、また笑ってしまう。それに、ひまるも十分構ってあげられなく、悪かったなと反省する。 「それより、玖月の方は?どうだった?大丈夫だったか?」 「ああ、忘れてました!そうだ!優佑さん、ありがとうございました。優佑さんのアドバイスのおかげで落ち着いて謝罪出来ましたし、これからの提案もしてきて、お客様からもOKもらいました」 「おおっ!よかった…心配だったんだ」 そう言われ、不意に抱きしめられた。立膝で片付けをしていたので、そのままの姿で引き寄せられる。 「よかったな、玖月。会社に報告もするんだろ?全部やってこいよ。その後一緒に昼飯食べようぜ」 抱きしめながら岸谷は続けてそう言う。だから玖月もドキドキするけど、そのままの格好で答えた。 このドキドキとする気持ちの名前は、もうわかっている。 「いいんですか?家事代行の方の仕事をしてきて」 「今日、こっちの仕事は休みだろ?だから、そっちの方を優先にやれよ。大丈夫だから。ほら、もう片付けも終わるしさ」 顔を覗き込まれて、「なっ?」と後押しされる。この部屋に帰ってきて、岸谷に抱きしめられたのは、ホッとして嬉しかった。 わかりましたと言い立ち上がる。 パタパタと玖月はベッドルームに向かおうと急ぐ後ろから「送っていかなくて大丈夫か?」と岸谷の揶揄う声が聞こえたので、「ひとりで行けます。大丈夫です!」と玖月も笑いながら声をかける。 岸谷の笑い声はその後も聞こえてきていた。

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