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第30話 玖月

「ひーくん、これから彩さんが来るよ。赤ちゃんも一緒かな。楽しみだね。マスクはしておいた方がいいよね」 朝から何度とひまるに話しかける。昨日の雨から一転、今日は快晴で青空が眩しい。 早朝からひまると散歩をして、家に戻ってからは掃除を行った。昨日着て寝た岸谷のTシャツも洗濯している。 コンシェルジュから連絡が入った。彩が到たようだ。 その連絡からまもなくして、玄関からインターフォンで呼ばれる。 「ひーくん!来たよ。赤ちゃんも一緒だから驚かさないようにね」 ひまるを連れて玄関に行きドアを開けると、彩と彩の夫がニコニコと笑って立っていた。赤ちゃんも抱っこされて、すやすやと寝ている。 「玖月さん!実物は初めましてですね!」 彩は元気な声で挨拶していた。岸谷に本当によく似ている。何度かオンラインでやり取りしているので、初めて会うような気はしない。 「初めまして。ひーくん、ほら彩さんだよ?あ、どうぞ。岸谷さんがゆっくりしていってと仰ってました」 玄関からリビングに通す。その間もひまるは大興奮して飛び上がりながら歩いていた。 興奮が収まらないひまるを、リビングで彩の夫が遊ばせる。ソファには赤ちゃんを抱っこしている彩を座らせて、玖月はひまるの物を渡していた。 「彩さん、コーヒーでもと言いたいのですが、ひーくんがあの調子だと飲み物をひっくり返しそうで…」 「いい、いい、いらないよ。ひまるがこんな調子の時は物が壊れるから、少しでも被害は少ない方がいいよ。何も出さなくていいから。それより、玖月さん色々とありがとうございました。兄の面倒まで見て、めっちゃ大変だったと思います。ひまるが二人に増えたようなもんだもんね」 彩がケラケラと笑いながら言うので、つられて玖月も笑ってしまった。 「ひーくんは凄くいい子でしたよ。お散歩してても問題なかったですし。ご飯も最近は少し量が増えました」 「うん、ひまる大きくなったもんね。毛もツヤツヤだし…本当にありがとうございます」 彩と話をしているとひまるが近づいてきて、彩が抱っこしてる赤ちゃんの匂いを嗅いでいる。ヤキモチ妬くかな、どうかなと玖月はハラハラとして見ていたが、ペロッと赤ちゃんの足を舐め始めた。 「あー…大丈夫そうですね。よかった」 玖月が独り言のように呟くと、彩が「玖月さんは優しいですね」と言い笑いかけられた。 その後はひまるの興味の対象が、赤ちゃんに移り、匂いを嗅ぎペロペロと手や足を舐め始めていた。吠えることも、唸ることもせず、ただ尻尾を振って楽しそうにしているひまるを見れて玖月は嬉しかった。 「じゃあ、行くか」と、言われたのでひまるの荷物をまとめて渡して、下の駐車場まで一緒に行き見送ることにした。 「ひーくん、じゃあね。元気でね」 「玖月さん、今度遊びに来て!私たち、ちょっと大きい家に引っ越ししたの。出産前に引っ越ししたからもう随分落ち着いたんだ。だから今度、お兄ちゃんと一緒に来てよ。それとまたお兄ちゃんにひまるを頼む時もあるから、その時はよろしくお願いします!」 しんみりとする暇もなく、バタバタと呆気なくひまるは帰って行った。最後に玖月に近づいて来た時だけは少しうるっときたけど、泣かないようにと玖月は気をつけていた。 岸谷の家に戻り最初にやったことは、岸谷にメッセージを送ることだった。 『無事にひーくんは帰りました』と書いて送るとすぐに返事がきた。『ありがとう。玖月大丈夫?』と書いてあった。 多分、岸谷は玖月を心配している。ひまるがいなくなり、自分もそばにいないからだと思う。忙しい岸谷に心配をかけたくなくて、玖月は『大丈夫ですよ!これから冷蔵庫の中を整理します!』と再度メッセージを送った。 部屋の中を見渡すと、がらんとしていて静かだった。ひまると岸谷がいる時は、いつも戯れあい、時には物を派手に壊していたりしていたけど、常に笑っていたなと思い出す。 「よし!やるか!」 このままではしんみりとして、泣きそうになってしまう。だから玖月は大きな独り言をいい、キッチンに向かった。 冷蔵庫の中にある物で、日持ちする惣菜を作る。今日、岸谷が帰ってきた時にすぐ食べれるようにしておこうと、あれこれ考えながら料理をしていった。掃除も料理も大好きだ。モヤモヤとした気持ちなど忘れて一心不乱になれるからだ。 料理が終わると最後の点検となる。岸谷のランドリーバスケットは空で、衣類やタオルは全て洗濯から乾燥まで行っている。リビングやキッチンも片付けは終わっていた。 「よーし、後はあっちの部屋だけか」 玖月のベッドルームの奥にあるランドリーへ向かい、総チェックする。これから自宅に戻るから、玖月の荷物をまとめていると、ひまるの散歩バッグが目に入った。今朝もひまると散歩に行った時も使っていた。いつもは玄関に置いてあるのだが、今朝は部屋まで持ってきてしまっていたようだ。 散歩バッグは、岸谷と週末によく行くスーパーで、景品としてもらったエコバッグだ。何度も通っているから同じ物を二つ貰っていた。 ひとつは岸谷用の散歩バッグとし、もうひとつは玖月が使う散歩バッグとして使っていた。同じ物だが色は違う。玖月は赤で、岸谷のは黒だった。 その赤の散歩バッグの中に、ひまるのおもちゃが入っていた。玖月が以前ひまるに作ってあげたTシャツで出来ているロープのおもちゃだ。 「ひーくん…」 ロープのおもちゃをいつもひまるは咥えていた。玖月が落ち込んでいる時も、喜んでいる時も、ひまると家の中で遊ぶのはこのロープのおもちゃだった。ひまるはこれを咥えて玖月の元にトコトコと歩いて来ては、ポイっと置き、尻尾をブンブン振っていた。その時の『遊んでくれ』というひまるの顔を思い出す。 確か昨日の夜、このおもちゃをひまるの荷物の中に入れたはず。彩に渡すために、今ひまるがお気に入りのおもちゃとして入れていた。 それが、玖月の散歩バッグに入っているということは、ひまる自身で取り出して、散歩バッグに入れていたんだとわかる。だって今日の朝、散歩の時にはバッグに入っていなかったからだ。 いつのまにか、彩に渡すための荷物の中から、ひまるはこのおもちゃを探し出し、玖月のバッグにしまったんだなと考えると、急に涙が溢れてきてしまった。 「…ひーくん」 ロープのおもちゃを抱きしめてボロボロと涙を流してしまった。 バッグの中におもちゃをしまい、岸谷のバッグと一緒に玄関に置いた。玖月が使用していた物だが勝手に持ち帰るわけにはいかない。 もう一度岸谷に連絡をしようとしたところに、電話がかかってきた。 携帯の着信先を見ると知尋だった。

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