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第31話 玖月

「…玖月?どうだ終わったか?」 「あ、ちー兄。終わりました。無事に犬も引き渡し出来たし、今自宅に戻る準備してました」 ひまるを思い出し泣いていたところに、知尋からの電話だった。泣いていたのを気が付かれないように、玖月は極めて明るい声を出した。 「そうか、わかった。今、下のコンシェルジュのところにいるから準備して降りてこい」 そう言うと電話は切れてしまった。 知尋がここまで来るとは聞いていなかったが、何か会社で問題があったのかもしれない。泣いている場合ではない。急いで行かなければと、最後に部屋の中を点検した。 玖月の荷物は少ない。我ながらこんなにコンパクトな量で生活出来るんだなと、驚く。この後、自宅に戻り部屋の掃除をして、荷物の片付けをしてと、頭の中で予定を立てながらペイントハウスを後にした。 鍵は、ひまるが嫌がる自動ご飯マシーンの中に入れた。鍵を隠すような感じで置くのは、岸谷と二人だけの秘密のようだ。 岸谷の家のドアに鍵はついているが、家に入るには必ず24時間体制のコンシェルジュを通り、チェックをされてから入ることになる。宅配便だって、家まで来ることはなく、コンシェルジュが受け取ることになっている。 外からのセキュリティがしっかりしているため、あまり鍵の役割は無いと岸谷は言っていた。ペイントハウスなんて、一般宅とは違う世界だなと改めて感じる。岸谷も会社の社長だし、本当はこんなに身近な存在じゃないんだなと考えていた。 それでも鍵をかけないで出かけてしまうと、オートロックでかかってしまうため、大変な思いをすると言っていた。そんな経験を何度もしたらしい。岸谷らしいなと、そんなことも思い出す。 急いでペイントハウスのエレベーターで降りると、コンシェルジュ前のソファに座っている知尋を確認した。 「ちー兄!どうしたの?ここまで来るなんて」 声をかけながら近寄る。久しぶりに大好きな兄の知尋に会えて少し嬉しく思う。 「…お前、マスクと手袋どうした?してないのか?」 「あっ、忘れてた。自宅に戻るだけだから、まぁいいかと思って。ほら、持ってるよ?マスクと手袋ね…だけどすぐそこに帰るだけだし、着けてなかった」 ほら、とマスクと手袋をバッグから出して見せるも、知尋は怪訝な顔をしている。 玖月は、岸谷の家の下に住んでいるため、一度コンシェルジュの前を通り、自宅の方のエレベーターで帰ることになる。だから、マスクも手袋も着けないで来ていた。それくらいはもう慣れていたので、今の玖月にとっては普通のことだった。 それに、世界的な感染ウィルスも終息し、公共の場ではマスクを着けない人の方が多い。玖月も、潔癖症が影を潜め、他の人と同じようにマスク無しの生活が出来てきていると、自分でも嬉しく感じていた。 「潔癖症が治ったのか?」 「うーん、治ったかどうかわかんないけど、岸谷さんの家ではマスクも手袋も着けてなかったよ。外に出かける時は、基本的にまだ着けてるけど、外すことも多くなってきてるかな」 「わかった。じゃあ、いくぞ」 「えっ?どこに?会社?そしたら、ちょっと待っててよ。荷物を置いてくるからさ」 車を停めているから、そのまま荷物を持ってとにかく来いと、知尋が言うため、玖月は従った。何だか急いでいるようなので、理由は車の中で聞こうと思う。 岸谷の車に乗るのに慣れきていたため、家族とはいえ知尋の運転する車は久しぶりで緊張する。玖月は後部座席に座り、マスクと手袋を着けた。 「…おい、何で俺の車に乗ったらマスク着け始めるんだよ」 バックミラー越しに知尋と目が合う。知尋は嫌な顔をしていた。 「だって、なんか急に不安になってきたんだもん。それにどこか行くんでしょ?何だかわかんないと、手袋もマスクも外せないよ。ちー兄、どこに行くの?」 「その前に、お前の携帯かせ」 「えっ?携帯?これ?」 携帯電話なんて何するんだろうと思いながらも、はい、と素直に運転席にいる知尋に渡した。玖月の携帯を知尋はスーツの内ポケットに入れていた。 「これから、陽子さんの自宅まで行く」 「会社?」 「いや、実家の方」 陽子の家は、家事代行サービス会社の事務所として契約している場所の上にあり、知尋と玖月の実家でもある。 今から行くところは会社かと聞いたのに、知尋は実家の方というのはどういう意味だろう。会社も実家も同じ場所にあるのにと、玖月は不思議に思っているうちに、車は走り出していた。 「お前さ、俺に何か言うことない?」 「えっ?何?何かって…なんだろ?」 今日、突然電話がかかってきたり、コンシェルジュまで迎えに来ていたり、そういえば知尋の行動はおかしい。何かまたミスをしていたのだろうかと、玖月は考えていた。 「お前の個人のSNS、人気になってるな?誰かと繋がってて、話題になってるんだろ?プライベートで何かあるんじゃないのか?」 岸谷のことだ。 岸谷とのことを知尋は言っている。昨日、玖月と岸谷の距離が近くなっていることを嗜められた。岸谷はお客様で会社と契約をしている。友達として付き合うなと、言われたことを思い出す。 玖月個人のSNSに、岸谷との生活とわかる写真をのせていることについても、続けて知尋に言われる。 SNSには顔や部屋が写っていないとはいえ、お互いが作った料理などが写っているのは、仕事で行った先でやる行為ではない。 しかも、SNSのコメント内容が親密すぎる。誰も気が付かなければいいという問題ではないと言われる。 「昨日も言ったろ?お客様なんだから、プライベートではもう付き合うな。この話は一旦、陽子さん交えてするから。とりあえず、お前は今日から実家で暮らすこと。わかったか?」 「…携帯は?」 「携帯持ってたら連絡するだろ?岸谷さんに。だから、後で別の新しい携帯をお前に渡すから。ほとぼり冷めるまでは俺が預かる」 岸谷に会えなくなるのか。 連絡が取れなくなるのか。 さっきまでは、今日出張から帰って来たらまた岸谷に会えると考えていた。 足元から冷気が上がってくるような気がして、身体が動かなくなる。浮かれていた自分への罰だと感じる。

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