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第32話 玖月

車が駐車場に停車した。後部座席から玖月は荷物を持って外に出る。久しぶりの実家に帰るのに、明るい気持ちになれず、こんなにも気分が重いのは気が引ける。 「お前の部屋、まだそのままになってるらしいから」 実家の自分の部屋は、ベッドとテーブルがあるだけで他には何もなかった。それでも綺麗になっているのは、陽子が掃除をしてくれているんだなとわかる。 「とりあえず、夜に陽子さんと来るから、それまでここにいろ。今日は仕事しなくていいから。お前、昼飯食べたか?」 「えっ?昼…?あ、まだ…です」 今日は、ひまるを送り出したり、部屋の掃除や洗濯、岸谷が帰ってきてすぐに食べれるようにと冷蔵庫の中の食材を調理などしてたため、お昼ご飯を食べるのを忘れていた。忘れていたが、お腹は空かないので必要ない。今は、食べる気にもなれない。 冷蔵庫に何かあるから食べるようにと、知尋は言い、そのまま会社に戻ると出て行った。会社はここの下だ。事務所がある。そこでみんな仕事をしているのに、自分は別の場所で待機しろ、仕事はしなくていいと言われた。ていのいい監禁、謹慎だろう。 部屋にひとりとなった玖月はテーブルの前に座り込んだ。岸谷に会えなくなった。連絡も取れなくなった。そればかり考えてしまう。 岸谷は今日、出張から帰って来たら玖月に連絡をするはずだ。それなのに自分はその連絡を受けることも、返すことも出来ない。 急に連絡が取れなくなった玖月のことを、岸谷はどう思うのだろうか。 これからのことを考えているだけで、あっという間に時間が経ってしまっていた。 夕方になり、バタバタと人が部屋に上がる音が聞こえてくる。玖月のドアがノックされたので、開けたらそこには陽子と知尋がいた。 「玖月、久しぶりね、大丈夫?知尋から聞いたけど…」 陽子は意外にも明るい口調で話しかけてきた。 「玖月、ちょっとこっち来いよ。話しよう」 知尋に言われ、そのままドアを閉めてリビングまで知尋について行くことにした。実家なのに、手袋とマスクは着けたまま、外すことは出来ないでいる。 「お昼は何か食べた?って…何も食べてないじゃない。お腹空いたでしょ?夜ご飯は、どうする?ピザとる?どこか食べに行く?」 冷蔵庫を開けながら陽子が玖月に話しかけるが、目の前にいる知尋は相変わらず厳しい顔をしている。 「ちょっと、知尋!玖月がビクついちゃうじゃない。やめなさいよ、その顔」 「陽子さんもこっち来て。玖月はそこ」 知尋が厳しい顔を崩さず言うので、テーブルを挟み、玖月と知尋、陽子が座った。 玖月に連絡をした時、玖月の口調から岸谷との距離が近いと感じたと知尋が言い、話始めた。 住み込みで家事代行を行うため、普通のお客様よりも距離は近くなるのは当然だ。だが、それとは少し違うようだと知尋は言う。それは、プライベートが大いに関係していると思われる、それに玖月の態度とSNSのことも続けて知尋は話始める。 「お客様を下の名前で呼び、プライベートの連絡先も教えた。人気になっているお前と岸谷さんのSNSでは、お互いにメッセージと写真を送り合っているから、恋人同士だって世間では思われているらしい。こんなことしてると、岸谷さんに迷惑がかかるだろ?いい気になって、調子乗ってるんじゃないか?昨日も言ったが、岸谷さんは友達じゃない。うちと契約してるお客様だぞ。それにこんなことじゃ、他の社員に示しがつかない。仕事じゃなくて遊んでるって思うだろ」 冷静な口調で知尋は話しているが、怒りを含んでいるのがわかる。 「でも…あの、それがちょっと違うんです。遊んでるわけじゃなくて…」 岸谷は玖月の家事代行が終わったら、挨拶に来ると言っていた。その前に、恋人同士になったと、勝手に伝えていいのか迷うが、今それを伝えずに隠してしまうと、もっとややこしいことになると思い、玖月は意を決して二人に告白することにした。 「実は、岸谷さんのことを好きになってしまったんです。それで、あの…岸谷さんも好きって言ってくれたから、その、SNSもお互いに連絡を取るツールのひとつとして…」 「じゃあ、本当に恋人同士になったの?」 玖月がしどろもどろ伝えていた話の途中で、陽子が大きな声を上げ口を挟む。驚いている顔で玖月を見ている陽子に向かい、コクコクと頷いた。 「お前さ、本当に何やってんの?家事代行の仕事で行ってたよな。それなのに恋愛?好きになった?ふざけるな!俺はいつも言ってた、仕事をプライベートで使うなって。責任持って仕事することは、できないのかよ!」 「違う!仕事はちゃんとやってた!本当です。報告もしてたでしょ?ひーくんの…犬の世話をして、掃除、洗濯、料理も毎日やってました。手を抜いたりしてない!責任持って仕事していました」 子供の頃からずっと兄が大好きで尊敬している。頭が良くて、何でも出来て、優しくて。その兄に面と向かって怒鳴られたのは初めてだった。 途中、陽子が止めに入るが、知尋の怒りは収まらない。 「それに…お前は潔癖症だろ?お前がいう恋人って何?普通の恋人同士と違うんじゃないか?他人とのスキンシップは難しいだろ」 「それは…大丈夫だった…と思う」 スキンシップがあったことを匂わせるニュアンスで伝えると、知尋はあからさまに嫌な顔をした。 「相手は物珍しいだけだろ。突然家に来た奴が、料理が出来て、掃除もしてくれて、ちょっと役に立って、重宝したなって思うくらいだろ。少し距離を置けば相手は忘れるんじゃないか?飽きて相手にされなくなるんだろ。だからその前にやめておけ」 「そんなことない!」 知尋の心無い言い方に玖月は声を荒げる。少し離れればお互いのことを忘れて、また今までのように生活が出来ると、知尋は言っている。 「なんで、そんなことないってわかる。冷静に考えてみろよ。相手は株式会社アーネストの社長だぞ。結婚相手だって探すだろうし、もういるかもしれない。お前の存在が邪魔になったらどうする?」 「違う!約束した!岸谷さんは…優佑さんは挨拶に来るって約束してくれた!お付き合いしますって、母さんに挨拶に行くって言ってた!だから、その時は僕も一緒に行くってことになってた」 初めて兄と言い合いをする。玖月が声を荒げることも初めてかもしれない。知尋は極めて冷静に振る舞っているが怒りが込み上げているのは感じている。 「約束?ちゃんと約束したのかよ。いつだよ、いつ挨拶に来るんだ?そんなの口だけかもしれないだろ。お前は世間知らずなんだから、遊ばれてるに決まってる」 「いいかげんにしなさい!知尋、言い過ぎ」 二人の関係を知らないくせにと、言おうとしたところで陽子が止めに入った。 「とにかく…お前はもっと責任を持て。ちゃんと仕事しろよ!いつまでも子供じゃないんだから、大人になれ。それと、ほら、これ使え。メッセージアプリとSNSは入れるなよ。社用だから、チェックするぞ」 ほら、と知尋がテーブルの上に出したのは見たことがないスマートフォンだった。会社の携帯なので、これで連絡を取るようにと言っている。家事代行スタッフや、契約しているお客様と連絡を取るためだ。 但し、この携帯には岸谷の連絡先は入っていないと釘を刺される。 「僕の携帯は?返して!」 「携帯は預かっておく。お前に返したら岸谷さんに連絡するだろ?お前から連絡して、これ以上会社に泥を塗るようなことするな!それにいい機会だ。相手がお前のことを本当に好きなら、どんな手を使ってでも、お前を探し出すはずだし、お前と連絡取らなくても、俺たちに連絡してくるだろう。それが無かったら、それまでの存在だってことだ」 「酷い!ちー兄、酷すぎる!何も知らないくせに、わざと傷つけるようなことばっかり言う。それに、仕事はちゃんとやってます!明日からもヒアリングと人材コーディネーターの仕事は責任持ってきっちりやるから!泥を塗るようなことはしないから!してないから!」 冷静な口調で傷つくようなことばかり言われたので、玖月も知尋にくってかかってしまった。 もう、これ以上話をしても平行線だと思い、知尋から渡された新しい携帯を掴み、玖月は席を立った。 「おい!こんなこと家族じゃないと言えないから俺が言ってるんだ。おい、ひー!聞いてるのか!」 「ひーって呼ばないで!」 生まれて初めて兄と喧嘩をした。 ◇ ◇ 久しぶりの実家は、たった一日だけを過ごすことになると思っていた。 出張から帰ってきた岸谷が、玖月と連絡が取れないとわかったらすぐにでも陽子か、会社にコンタクトを取るはず。岸谷が玖月を探してくれればすぐに会える。そう思っていた。 それなのに、数日経っても岸谷からの連絡は来ない。なので実家での暮らしが今も続いている。 夜、陽子が仕事から帰って来るのを待ち、玖月から声をかけ確認したこともあった。 「優佑さんから連絡あった?」 「それがさ…ないのよ。私の方には連絡が来ていないから、会社の方に来てないかって知尋に聞いてみたんだけど、わかんないって言うの」 どうしたというのだろう。北海道から帰って来れないのだろうか。 最後に電話で話をした時に、急遽アメリカに出張が入ったと言っていた。仕事が忙しくなり、北海道からアメリカに行ってしまったのだろうか。 近くに住んでいるからすぐに会えると、今まで楽観的に考えていた自分に嫌気がさす。連絡がないことで玖月を必要以上に不安にさせた。 岸谷から連絡が来ない日々が続き、もしかしたら、知尋の言う通りかもしれないと考え始める。 少し距離が生まれれば、飽きて相手にされなくなったのかもしれないと。だけどその後すぐに、いや、岸谷はそんな人ではない。きっと仕事が忙しいはずだ。信じて待っていようと、考える。 不安になったり、落ち着くようになったりと、気持ちのアップダウンを繰り返す毎日だった。 それに、治ったと思っていた潔癖症がひどくなってきていた。マスクに手袋を着けていないと人前に出られない。 家の中でさえもそうだ。陽子がいる時はマスクをしないと部屋から出ることが出来なかった。そんな症状に加え、食欲もないため、食事も最低限の物を無理矢理食べている生活だった。 日中は自身の仕事を懸命に励む。岸谷が教えてくれた責任ある仕事をと心掛け、家事代行スタッフのフォローと、お客様へのヒアリングをオンラインか電話で続けている。仕事中は他のことを考える暇はなく、あっという間に時間が過ぎていく。 それでも夜、ひとりで部屋にいると岸谷を思い出しさみしく思い、何故連絡がないのだろうと不安になる。 岸谷の家にいたのは随分前のような気がする。岸谷は今どこにいるのだろう。アメリカだろうか、それとももう戻ってきており自宅にいるのだろうか。 更には、ひとりでいるのか、それとも誰かと一緒にいるのだろうかと、悪い方へと考えが進んでいく。 以前、飲んで話をしている時に聞いた事が頭に浮かぶ。岸谷は恋愛では深く傷つきもしなければ、別れる時は追いかけることもしないと言っていたことだ。もしかして、そうなのだろうか。新しい誰かが出来たのだろうか。あれだけの人だから当たり前かもしれないという考えがよぎる。 ペイントハウスに住んでる社長だ。元々、住む世界が違うのかもしれないと、ネガティブなことばかりも考えてしまう。 「玖月、ちょっと付き合ってよ」 部屋をノックしてきたのは陽子だった。仕事も終わったので少しだけ飲むのを付き合ってくれと言われた。 「付き合ってもいいけど、飲まないよ?リビングにいるだけだけどいい?」 部屋から出て、リビングまで行くとテーブルには赤ワインが乗っていた。いつもなら飛びつくところだが、今はそんな気分ではない。 「岸谷さんのところで潔癖症は治ったのに…また、ぶり返したか〜」 家の中でも、マスクに手袋姿の玖月をチラッと見て陽子は明るく呟いた。 「治ったかどうかわかんないよ。だけど、優佑さんの家の中ではマスクも手袋もしてなかった。それに、犬の散歩で外に行くときも手袋はしてなかったな」 「すごいわね。それって大進歩じゃない。でも何故かしらね、戻っちゃったのは」 陽子は赤ワインをグラスに手酌している。コポコポと音が聞こえてくる。トロッとした赤ワインなので美味しそうだと思いながら見ていた。 「知尋とまだ喧嘩してるの?」 「ちー兄が酷いことばっかり言うんだもん。信じられない。頭がいい人って嫌なこと言うのが上手いよね」 知尋とは、あれからまともに話をしていない。意地悪なことばかり言うので、実家で顔を合わせても、玖月がプイッと顔を背けていた。仕事で必要なことだけ事務的に会話をしているだけだった。 「でもその頭のいいのを鼻にかけたような男が、えらく焦ってるじゃない。それを見ているのも楽しいわよ」 「誰?その男って」 「知尋よ。玖月と初めて喧嘩したから、あれでもかなり動揺してるわよ」 「しないよ!ちー兄は動揺なんてしない。 それに喧嘩じゃないって。ちー兄から言われてるだけだもん。僕みたいな半人前はイライラするんでしょ。だから、言う通りにしろって、頭ごなしに言うんだよ」 「玖月だって始めて知尋に言い返してたじゃない。それに今だって、顔を合わせるとツーンってしてんだって?知尋と話もしないんでしょ?無視されてたら知尋はたまんないわよ。玖月のことが大好きなんだから」 「無視してないよ。喋ってないだけ。仕事では元々接点ないし。それに僕だって、ちー兄のこと好きだよ?だけど、あんな酷いこと言われたら許せないよ」 あははと陽子は笑いながらワインを飲んでいる。美味しそうだ。意外にも陽子は、初めて兄弟喧嘩を見れたのが嬉しいと言っている。確かに、今まで兄と喧嘩はしたことがなかった。 「ちー兄の言うこともわかるけどさ。やっぱり、母さんもダメだと思う?僕と優佑さんの関係って」 実家にいる時は、陽子さんでもなく社長でもなく、母さんと呼んでいた。この時だけは、陽子と呼べとは言われなかった。 「そうね…仕事で行ったのに恋愛関係になったのは、社長としてはよくないと思ってるわよ。だけど、母親だとね…許せるかな。お互いフリーなんでしょ?だったら好きになっても問題ないし、気が合ったらもうしょうがないじゃんって思うわよ。知尋に言ったらまた文句言われそうだけど」 恋愛遍歴が多い陽子の回答は、案外シンプルだ。好きになった者同士、しょうがないじゃないかといったところだろう。 「でもさ、母さん、相手は男の人だけど…男同士で付き合っても大丈夫?それって問題ない?僕が岸谷さんとお付き合いしたら結婚出来ないし、子供も作れないよ?」 玖月が今まで付き合っていたのは異性であり、同性の男性を好きになったのは岸谷が初めてだ。男同士の付き合いについて陽子はどう思っているか、玖月は不安だった。 「あはははは。玖月、ウケる!男の人だからって何?男同士、だから何?そこは、知尋も文句言ってなかったじゃない。同性だからダメとは、私も知尋もそんなの頭にはないわよ。好きになった人でしょ?」 「いつの時代だよウケる」と言い、まだ陽子は笑っている。今は酔ってきているなと思うが、飲んでいない時も、そのことは否定していなかったので陽子も知尋も寛容な人だと思う。同性、異性など、そもそも関係ないようだ。 「母さん、いつまでも半人前でごめんね。言うこともやってることもさ。ちー兄みたいには、なれないよ」 「何よ、玖月。その半人前って口癖なの?やめなさいよその口癖。知尋と同じように生きる必要はないし、仕事だって同じことをする必要はないじゃない。人には向き不向きってあるんだし。知尋には玖月の仕事は出来ないし、その逆で、玖月に知尋の仕事も出来ないでしょ?それに、この前の謝罪、ほら、平林さんへの謝罪よ。あれはたいしたもんだって、知尋は嬉しそうに言ってたわ。その後の提案までしてくれたって、言ってたわよ。今では仕事に責任を持って対応しているし、私も知尋もあなたのことを一人前だと既に思ってるけどね」 今まで仕事のことで褒められたことはなかったので、こうも面と向かって言われると恥ずかしい思いもあるが、心から嬉しく思う。 責任を持って仕事をするのは大変だけど、褒められるとやってよかったと改めて思う。 「謝罪の後の提案、あれも優佑さんが教えてくれたんだ。それでミスを防ぐ対策と仕事の改善は必要だってわかったから、お客様にもスタッフにも、負担や不満がないようにしたくてさ…」 ふーんと、意味深な顔で陽子は玖月を見ている。そんな顔で見られると、もじもじとしてしまう。 「岸谷さんに随分お世話になったのね。早く連絡あるといいわよね、忙しいのかしら。それと、知尋と仲直りしなさいよ。初めてぶつかり合ったのは、兄弟だからこそって感じで嬉しかったけど、私にとっては二人とも可愛い子供なんだから。仲良くして欲しいわ」 「うん、まぁ…」と煮え切らない答えを言う玖月を、陽子はニコニコと笑いながら見ていた。

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