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第33話 玖月

ここで生活し始めてからは、中々寝られず、寝たとしても朝早く目が覚めてしまう。 夜中には何度も目が覚め、その度に寝返りを打っていた。寝返り打つのも疲れるもんだと、ため息をつく。その自分のため息がやたらと大きく耳に響いていた。 一日中家にいる生活となり、外出はしていない。今まで日課であったひまると散歩をすることもなくなり、掃除や洗濯、料理などは自分の分だけとなったため、身体を十分動かすことがないのが、よく寝られない原因かもしれない。 実家暮らしでリラックス出来るはずが、今は寝るのも苦痛を感じるほどになってきている。 そろそろ一度、自宅に帰ろうかと思っている。だけど、自宅は連絡の無い岸谷と同じマンションだ。そう思うと怖くて帰れず、足踏みしている自分もいる。万が一、岸谷と誰か一緒の姿を見てしまったらと思うと、怖くてたまらない。 目が覚めてしまったので、ベッドの中で目を閉じながら仕事のスケジュールを確認していた。今日は一日、事務処理をする予定だ。 こう無理にでも仕事のことを考えていないと、いつでも岸谷のことを考えてしまう。考えると眠れず、食事も喉を通らず、不安から涙が出て止まらなくなってしまうからだ。 ベッドの中にいるのも飽きてきたので、部屋着に着替えようと起き上がる。まだ起きるには時間は早過ぎるけど、他にやることがない。ストレッチや早朝マラソンなども、やる気になれない。 起き上がった拍子で、枕の横に置いてあるスマートフォンがベッドの下に転げ落ちた。スマートフォンを拾い上げると、メールが届いているのがわかった。 社用携帯なので、会社の人かお客様からの連絡だ。こんなに朝早くから誰だろうと思いメールを開いて確認する。 メール送信者は渚だった。 『高坂社長宅への家事代行日程を変更して欲しい』と書いてある。 送信時間を確認すると、メール送信は夜遅くだった。玖月がベッドに入っている間に渚から連絡があったようだ。 月に一度の仕事である高坂宅への家事代行は来週の予定だ。それを急遽、今日に変更して欲しいと書いてある。 今日…急な変更だ。 実家で生活してから外出はしていないが、仕事に穴をあけたくないため、高坂宅への家事代行は行く予定であり、陽子も知尋もそれは認めていた。 玖月の体調が悪くなければ問題ない、いつも通りの仕事をして欲しいと言われている。 高坂の家ではいつものようにキッチンの掃除をしてランチを作ることになる。ただ、玖月の潔癖症がいつもよりひどいため、高坂と一緒に食事が出来そうにない。今は誰かと食事をするのは難しいと理由を伝え、高坂の分だけ料理を作ろうと考えていた。 渚が会社に出勤する時間を見計らって、玖月から電話をかけた。 「…あ、渚ちゃん?メール見たよ。連絡遅くなってごめんね」 「玖月くん!どうしたのよ!メッセージしても電話しても繋がらないから、会社のメールに連絡したんだよ?」 「えっ?ちー兄から聞いてないの?」 「は?何が?」 渚には話が伝わっていないようだった。知尋から何も聞いていないと言う渚に、事情があって陽子の家にいると説明する。岸谷のこと、知尋に怒られたことは伝えなかった。 「ちょ、ちょっと待って。知尋くんに言われて、陽子さんの家にいるの?それで玖月くんに連絡が取れないのはどうして?」 「うーん、詳しいことは今度言うよ。とにかく今は社用の携帯しかなくて。後で社用携帯の番号をメールしておくね。それより、高坂さんところの仕事だけど、今日になったって…急に変更なんて珍しいね」 「ああー!そうなの。玖月くんと連絡取れないから焦っちゃった。いつも携帯に連絡してたからさ。あ、あのね高坂さんから、急遽で申し訳ないけど、どうしても今日でお願いしたいって連絡あってさ。しかも、今日は夕方でお願いしたいっていうの!今日って行ける?」 通常、家事代行の派遣スタッフとお客様とのケアやヒアリングは玖月の仕事だが、高坂の家事代行は玖月本人が行っているため、ヒアリングの仕事は渚が行ってくれていた。そのため、渚経由で高坂の希望や変更内容を聞くことになっていた。 「うん、大丈夫。行けるよ。あっ、でも、ちー兄に言っとかないとダメかな…急な外出は伝えないといけないから」 「なんで?今までそんなことなかったじゃない。なんでわざわざ知尋くんに伝えないと外出できないの?なんか変…どうした?」 「ううん、いや、大丈夫。何でもないよ。つうかさ、急に今日って変更も珍しいけど、夕方が希望も珍しいね。高坂さんっていつも夜は外食なのに」 怪訝な声の渚を心配させないようにと、玖月は話を逸らした。 「そうなんだよね。いつも昼なのにさ、それに今回はどうしても頼むって感じだったんだよね。なので、今日の夕方前に到着してもらって、キッチンの掃除とその後ご飯を作って欲しいってさ。それでOK?」 「OK、了解しました。終わったら報告します」 「よかったー!連絡取れないから心配しちゃった。それと、何かあったんでしょ?話を聞くから改めて夜に連絡するよ。新しい携帯番号をメールしといて!」 忙しいであろう渚を、朝一から捕まえて結構長く通話してしまった。とりあえず渚に社用携帯の連絡先をメールで伝えようと、パソコンを立ち上げる。 急ではあるが、高坂も忙しい身であるから変更も仕方がない。でもまあ、こんなこともあるか、と頭を切り替えて、玖月は午前中の仕事に取り掛かった。 ◇ ◇ 夕方前に高坂の家に到着した。 日が高くなり、夕方近くになってもまだ暮れずにいる。季節が変わってきたようだ。最近はろくに外に出ることもなかったので、日差しも眩しく感じる。 高坂の家の敷地は広い。 いつも掃除をする場所以外に、離れもあると聞く。こんな広い家に高坂はひとりで住んでいるのだろうか。今まで特に気にしたことはなかったが、今日は、ふとそんなことを考えてしまった。 「こんにちは。荒木家事代行サービスです。よろしくお願いします」 いつものように玖月が、家政婦さんに声をかけた。夕方なので帰るところだと言っている。入れ替わりで玖月が来たので挨拶だけして、キッチンは玖月ひとりとなる。 ここのキッチンも広くて使い勝手がいい。岸谷の家のキッチンに似てるなと、関係ないことを思い出してしまう。気を抜くといつも岸谷のことを思い出す。 キッチンの掃除を終えて、夕御飯の準備に入る前に高坂に挨拶をする。今日はいつもの和室ではなく、ダイニングの方にいると言われていた。 「高坂さん、荒木家事代行サービスです」 ダイニングのドアをノックし名乗ると「入っておいで」と高坂から声がかかる。 「失礼します」と言いドアを開くとそこは、一流レストランの個室ダイニングのようで、玖月は初めて入る場所だった。 高坂はダイニングの真ん中に座り、パソコンを広げていた。仕事中のようだ。 「玖月くん、久しぶり…ん?痩せたかな?どうしたんだい、ああ…陽子ちゃんから聞いたよ。最近実家に帰って生活してるんだって?」 メガネを外し、こっちおいでと手招きされる。長いテーブルをはさみ、高坂の前に座るように言われた。 「はい、今は社長と一緒に暮らしています。あの…それで今日は、」 「ああ、そうだった。急に予定変更して、すまなかったね。どうしてもと言われてな、まったく…それにしても、あまり顔色も良くないな。大丈夫かい?」 「あ、体調は問題ありません。大丈夫です。それに、予定変更も平気ですよ、大丈夫です。キッチンの掃除は終わりました。これから夕御飯を準備いたしますので、何かリクエストありますでしょうか」 いつものように食事のリクエストを聞くが、高坂は困ったような顔で玖月を見ている。 「今日は夕飯を作ってもらいたいとお願いしたけど、玖月くんと一緒に食べるのは難しいかな。最近はずっとキラキラして、楽しそうにしていたけど、どうしたんだろうか。君にそんな顔をさせる奴は誰なんだろうね、まったく」 玖月を心配する高坂の目は優しい。まだ何も伝えていないが、マスクに手袋姿の玖月を見て、潔癖症が悪化しているとわかっているだろう。 それに一緒に食事をすることが難しいと瞬時に見抜く。そんな玖月の姿を見ても詳しい理由を問うことはせず、最近のことを聞かせて欲しいと言う。 仕事のことでもいいし、ひとりになって考えてることでもいいよと言われる。少し痩せた玖月を心配した発言だ。 「最近ですか…そうですね。仕事はこの前提案したものを続けています。毎日スタッフやお客様とお話をしたり、メールでやり取りしたり…この仕事は楽しいです。やっと自分がやりたいことが形になって見えてきた気がします。このやり方を教えてくれた人がいたんですけど…本当に感謝しています。僕はやっぱり、母や兄と一緒に仕事がしたいし、少しでも役に立ちたいって気持ちが大きいみたいです」 「そうか、それは素晴らしい。仕事は誰かと一緒にすることだから、玖月くんの前向きな姿勢と誠実な態度が周りに大きな影響を与えていると思うよ。それに君は、途中で仕事を投げ出してしまうことはしない。 今日だってそうだろ?急な予定変更だったら別のスタッフを送ることもできたはずだ。だけど、君が来てくれた」 優しく笑いかけられる。高坂を前にするといつも気持ちが落ち着く。本当に不思議だ。玖月は、すぅっと大きく息を吸った。 「そうでしょうか…高坂さんの家事代行は僕が行きたいからっていうのがあります。だから、そんな大層なことじゃないですよ。他のスタッフを、なんて考えたこともなかったですし…」 「それでもだよ。君には責任感があると思う。責任感がある人は、誠実に対応してくれるから周りを安心させてくれる。もしかしたら君が気がついてないのかもしれない。だけど周りは君を頼りにしていると思うよ」 うんうんと笑顔で頷きながら、高坂はコーヒーを飲んでいた。そういえばパソコンも広げているし、仕事中ではなかったかと玖月は慌てる。 「あの、高坂さん、お仕事中ですよね。夕御飯のリクエストいただければすぐにご用意いたしますので」 「あ、これ?違う違う!もう今日は仕事してないから大丈夫。それより、もうちょっと話をして欲しいな。玖月くんの話を聞くと僕は元気が出るんだけど…仕事は順調そうで良かったよ。やる気もあって楽しいのはよくわかった、嬉しいよ。それについて僕はこれからも応援する。だけどねぇ…今の君は…うーん、なんて言ったらいいんだろうね。心に何か挟まっちゃったかな」 ん?と聞き、高坂は微笑んでくれる。陽子より少し年上の高坂を、玖月はやっぱり父親のように見てしまう。心の中も見透かされているだろうが、高坂であれば嫌な気持ちにならない。父親がいたらこんな感じなのかもと思う。こんなこと陽子に言ったらまた叱られるが、父親をあまり知らない玖月はそう考えていた。 「心ですかね…なんでしょう。息を吸っても吐いても胸が苦しくて、何かが挟まっているのかな。でもそれがとれなくて、息苦しくて、深く深呼吸してもとれなくて…食べ物が詰まってるわけじゃないのに、可笑しいですよね」 深く息を吸い込むと胸の中心がズキっと痛む。息を吐くと、痛みは震えてキリキリさせられる。お腹も空かないし、テレビを見たり、本を読んだりする気力もない。 仕事をしていれば時間が経つが、休みの日になるのは怖い。何も手につかず、一日中ずっと部屋の中で、ジッとしているだけだった。 一度口に出したら止まらず、手袋をしている自分の手を握ったり開いたりして、それを見ながら高坂に話をしていた。 岸谷に会えない不安から、気持ちが一気に流れ出てしまったようだ。 「そうか…それは辛いね。時間が解決するのか、それとも誰かが解決してくれるのか。いずれにしろ、今のままでは良くはないな」 少し厳しい顔になった高坂がそう言う。 「いつか治るのでしょうか。治った時に僕は変わってしまうのでしょうか。何となく、これからのことを考えると不安になります」 この先ずっと岸谷から連絡が来ないかもしれない。いつかは踏ん切りをつけなくてはいけない日が来るかもしれない。岸谷と暮らしたあの時に戻りたい。何度となくそう考えていた。 「過去は変えらないよね。良くも悪くも。それと、未来を考えれば不安になる。これは誰でも同じだよ、僕もそうさ。だから心に何か挟まった時は、今を考えて進めばいいかな。今を考えるのって必死だからね。しかし…君をそんなにさせるなんて…」 「そっか、そうですね!ありがとうございます。やっぱり高坂さんとお話をすると元気になります。元気を貰うのは僕の方です。何だか少しスッキリしました。過去も未来も考えないで、今だけを考えてみます。そうします。良かった、ちょっと答えが出た感じです。そうだ!どうしますか?夕御飯のリクエストありますか?」 そうだ。 岸谷からの連絡を待つだけではなく、今を大切に、精一杯進もうと思った。岸谷から教えてもらったことが出来るようになった今の自分を考えようと。 「あ、そうだね、夕飯だったか…うーんと、ああ、玉子焼き?と、味噌汁?と、肉かな?リクエストは。肉?肉ってなんだろうね。ま、何でもいい。肉ならいいんだろう」 メガネを掛け直し、パソコンを読む高坂から夕御飯のリクエストを聞く。定食のようなご飯のリクエストは初めてだった。 「あ、それとね。申し訳ないけど、二人分作ってくれないかな。僕の分ともうひとり分。もうちょっとでここに来るらしいよ。玖月くんも一緒に食べてくれると嬉しいんだけど…それはちょっと難しいかな」 「お客様ですか?」 「いやぁ…客ではない。そんな大したもんじゃないけど、まあ食事は出してもいいだろう」 「はあ、わかりました…」 何だかよくわからなかったが、とりあえず返事をした。今日は何だかいつもと違う。夕方に呼ばれることもなければ、お客様を呼ぶことも今まではなかった。お客様とは基本的に外食をすると言っていたので、本当に今日の高坂は珍しい。 玖月が席を立とうとした時に、外から誰かが走ってここに向かってくる音が聞こえた。 玖月が部屋を出るより先にドアが乱暴に開いたので、驚いて後退りしてしまった。 「…玖月」 「うそ…」 心に挟まっていた人がそこに立っていた。

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