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第34話 玖月
「玖月、ごめん。遅くなった」
勢いよく開いたドアに、びっくりしている玖月を、躊躇せず距離を詰めてきて抱きしめているのは、ずっと連絡を待っていた人だった。
「優佑さん?なんで?どうしてここ?」
抱きしめている男の顔を覗くと、やっぱり岸谷なのだが、玖月はまだ状況が掴めずにいる。何故ここに岸谷が来たのだろう。
「おい…優佑、まったくお前は何をやってるんだ。玖月くんがびっくりしてるじゃないか」
はあっと高坂が長いため息を吐き、岸谷を『優佑』と呼んでいた。
「ああ、親父ありがとう。今回だけは感謝する」
「え?なに?優佑さん、どういうこと?え?高坂さん?」
「ごめんな、玖月。やっと会えたな…そうだ、携帯無いんだろ?連絡取れなかったんだよな、わかってるよ。俺もあの後すぐにアメリカに行くことになって…さっき帰国したんだ。玖月、よく聞いてくれ。俺の気持ちは変わらない、君のことが好きだ。だから今日は荒木さんのところに挨拶に行こう。一緒に行って認めてもらおう」
岸谷の言葉がうまく頭に入らない。都合のいい言葉を拾ってしまう。好きだと言われて舞い上がりそうだ。
「いや、えっ?ちょっと待って…あの、高坂さん?」
「それね、僕の息子。バカ息子でごめんね、玖月くん」
テーブルの反対側に座っている高坂が、ニヤッと笑って岸谷を指差している。
驚きすぎて声にならない。
さらっと告白した高坂の言葉で、高坂と岸谷が親子であると知る。
玖月が仕事上で付き合いがあることは、この二人はお互いに知っていたのだろうか。
絶句し固まっている玖月を、岸谷はまた抱きしめる。岸谷の胸に顔を埋めていると「ごめんな」という声と、トクトクトクという少し速い心臓の音が響いて聞こえる。
「じゃあ、玖月、行こう。行けるか?」と岸谷に肩を抱かれ手を引かれるが、状況がよく理解していないのに、ボケっとしてついて行くわけにはいかない。
岸谷が目の前に急に現れて、陽子に挨拶に行こうと言っている。夢のようだが、展開が早すぎて追いつかない。
「ゆ、優佑さん、ちょっと待ってください。何だかよくわかりません…あっ、そうだ!ご飯、そう!夕御飯の準備をしなくてはいけません。キッチンに行ってご飯を作ってきます。高坂さん、お待ちください」
驚くことばかりである。
でも、今はとにかく仕事が先だ。
まだ今日は終わりではない。
夕御飯の準備を始めようとキッチンに足早で戻るが、玖月の後ろを岸谷も着いてきていた。
えーっと、なんだっけ?玉子焼きに味噌汁、それとお肉がリクエストだっけと、高坂が言っていたことを、独り言のように呟く。そしてそれが全て、岸谷の好きなものだと気がつき泣きそうになる。
今まで止まっていた心臓がドキドキと動き始めているようだ。何をし始めていいのかも、よくわからない。手も震えている。
冷蔵庫を開けたり閉めたりと、自分の行動も、ちぐはぐだ。頭の中で献立を考えようとするも、ドキドキという心臓の音が邪魔をして、動きを止めてしまう。
「玖月…ごめんな。ずっと不安だったろ?怒ってる?」
岸谷がキッチンに立つ玖月を後ろからまた 抱きしめた。
ずっとこの人を待っていた。
眠れない日も、不安な夜も、ずっとずっと待っていた。
連絡が取れなくて不安だった。一日が長くて、ひとりでいるのは押しつぶされそうだった。
何から聞けばいいのだろう。
何から伝えればいいのだろう。
考え始めると、先に進まない。
夕御飯を作らなくてはいけないのに。
「…不安だった。もうダメかと思った…」
玖月は抱きしめられたまま後ろを振り向くことは出来ず、キッチンの冷蔵庫を見つめながら自然に言葉と涙がこぼれ落ちた。
「ごめん。本当にごめん。俺がもっと準備してればよかった。不安にさせたな。痩せちゃったか?それに…また症状出ちゃったか?」
声を出すと泣き声になりそうだから、頷くことしか玖月は出来なかった。
「ひとつずつ話をするよ。聞いてくれる?まずは、ひまるが帰った日からだよな」
二人はキッチンの椅子に座り、向かい合った。手袋の上から手を握られ、見つめられる。いつも部屋まで送ってくれる時に繋いでいたあの大きな手だった。
大きな手は温かい。
握られている手を辿り顔を上げてみると、そこには岸谷がいる。
やっと会えた好きな人だ。
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