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第38話 玖月

玄関には靴が並んでいる。 陽子のいつもの靴と、後ひとつは知尋のものだとわかる。 「ただいま…」 声をかけながら岸谷と一緒にリビングまで入ると、陽子と知尋がいるのがわかった。 「おっかえり〜。岸谷さん!お久しぶり。やっと玖月と会えたのね、よかったわね」 テンション高く陽子が玖月に飛びついて話しかけてきた。暗い雰囲気ではなかったと少しホッとする。 「お久しぶりです。お邪魔します」 「どうぞ、こちらに」 陽子がリビングテーブルに岸谷を誘導した。玖月も続いて岸谷の隣に着席する。 陽子がお茶を入れるためにキッチンに行くのを見て声をかけたが、そのまま座っててと言われる。 玖月の目の前に知尋が座った。 「知尋くん、いつも連絡とってくれてありがとうございました。あのメールがあったから玖月が無事だとわかって少し安心出来ていた。そして今日やっと日本に帰国したから、ご挨拶に来ることができました」 岸谷が和やかに話を始めた。その間、知尋はジッと岸谷を見て話を聞いている。 「あらあら、ご丁寧に挨拶に来ていただいて、こちらこそありがとうございます」 陽子がコーヒーを運んできてくれた。好意的な言葉の陽子を見て、玖月はニッコリと笑った。 「改めてまして、今日はお時間いただきありがとうございます。そしてご挨拶が遅くなり大変申し訳ございませんでした。そして、ご挨拶早々でご報告となりますが、私と玖月くんは恋人関係にあります。家事代行スタッフとして来ていただいた時に、そのような関係になりました。仕事をしていた時期に恋人同士の関係となったことについては、大変申し訳ないと思っております」 「要は手を出したってことだよな」 岸谷の話の途中で知尋が口を挟む。玖月はまだ怒っている知尋の態度にため息をついた。 「そうですね。好きになってしまったので」 だが、知尋の言葉に岸谷が間髪入れず答える。手を出したことは認めると。 知尋はそれを聞きムッとしているが、知尋の態度に岸谷は姿勢を崩すこともせず、真っ直ぐと前を向き話を続ける。 「玖月くんと仕事上ですけど、一緒に暮らし始めてから、一番近くで見ていましたから。彼の日常生活を丁寧に過ごしている姿、真面目で誠実な態度、それに、人一倍色んなことに気を遣い努力家です。好きになった理由をあげるとキリがないですが、彼を知ってしまったら止まらなかったですね。愛おしくてたまらないです」 岸谷が隣にいる玖月を見てニッコリ笑う。玖月もその笑顔を見つめ返し笑いかけた。褒められてるのは恥ずかしいけど。 「そんな玖月くんをこれからも隣で見ていきたい。笑ったり、悩んだりするのも一緒にしていきたいと思っています。玖月くんを大切に、幸せにします。今日はそのご挨拶とご報告でお伺いしました」 岸谷からの言葉を聞き、陽子は嬉しそうにニコニコとしているが、知尋は相変わらず無愛想でブスッとし、岸谷を睨みつけて口を開いた。 「何度も言ってるけど、仕事中に手を出したことがどうも信用ならない。ちょっと一緒に生活した時に家事が出来て、言うこと聞いてくれて、物珍しいだけだろ?遊ぶんなら他で遊んでくれよ。なんで玖月なんだ」 「信用ならないのは仕方ないけど、玖月のことはそんなふうに見たことはない。この先ずっと一緒にいるつもりだ。遊ぶということはよくわからない」 知尋と岸谷の言い合いが始まってしまい、玖月はオロオロとしてしまう。 「一流会社の社長だろ?いずれ結婚するはずだ。結婚相手が出てきたらどうする?玖月は捨てられる?まあ、そういうことになるだろうな」 「俺は結婚はしない。玖月と結婚出来ればいいけど、同性同士の結婚は認められていないからな。だからこの先ずっと玖月と一緒にいると約束することしか出来ない」 そこまで約束してくれれば嬉しいし、他に 何かをお願いすることもないと玖月は思っていた。 「結局、玖月は世間知らずだから、遊ばれるわけか」 知尋の言葉に玖月の中で、ささくれ立つ思いがした。 「さっきから聞いてれば…何なの?ちー兄は駄々っ子なの?失礼なことばっかり。優佑さんは約束通り、今日挨拶に来てくれてる。それに、僕の気持ちは無視?遊ばれる?遊ぶ?はあ?なにを知ってるっていうの?僕たちのことを、とやかく言わないで!口を挟まないで欲しい。とにかく、ちー兄は黙ってて!」 「いや、玖月、ちょっと待ってな、」 途中、岸谷が凄い剣幕で捲し立てる玖月を止めに入るが、一度口を開いた玖月は止まらなかった。 「いいえ、優佑さん。優佑さんは懸命に話をしてくれています。約束通り挨拶に来てくれたのに、それなのに兄がこのように物事を斜めにしか見れないような、不貞腐れた態度で申し訳ございません。ちー兄、優佑さんが会社まで僕を探しに来てたよね?連絡取ってたのを僕に内緒にしてたでしょ?」 玖月の剣幕に押されているのか、知尋がぽかんとした顔をしている。さっきまではムッとしていたのに、今は少し間抜けな顔をしている。 「あっ…それは、まぁ、玖月に対する態度を見極めるのにだな…えっと、それに、ほら、お前に話しかけてもツーンってして、俺と話してくれなかっただろ?」 知尋の言葉を聞き玖月は鼻で笑ってしまった。その後、へぇ…と冷ややかに口を開いた時、岸谷と知尋がビクッとしていた。自分でも、恐ろしいくらい冷たい声が出たなと思った。 「メール、メッセージアプリ、電話メッセージ、色んなツールが世の中にはあるよね。直接話をするのが難しくても、伝えようとしたら伝えられるツールはあります。ちー兄と僕はその色んなツールで繋がっている。同じ会社で働いているから尚更。それなのにその便利なツールを使うこともせず、大事なことを伝えることをしなかったとは…これは僕を騙していたと同じこと、僕のちー兄に対する信用は無くなったよ」 「い、いやぁ…玖月、多分知尋くんは父親のように玖月のことを心配していて、」 「優佑さんは、ちょっと黙っててください。大丈夫ですから」 あー…と、岸谷は口をつぐんだ。知尋も無言が続く。 「ほら、反論は?言いなよ。僕を探して来た人がいるのに、本人に伝えないで内緒にしていたのはどういことか教えてよ」 玖月が知尋をジリジリと追い詰めるように言い始めた。黙ってないでなんとか言えと、間髪入れずに聞く。 「い、いや、伝えなかったのは悪かったと思っている。少し離れれば玖月のことなんて忘れられてしまうと思って。だからほとぼり冷めるまで、連絡あったことを伝えなくてもいいかなぁって…思ってた…だけど、ほら、今日連絡あった時は、挨拶に来るってわかったから陽子さんにも伝えてこうやって時間を作ったろ?」 「もっとまともな言い訳はないのか!」 玖月の大きな声にまたしても、知尋と岸谷はビクッとしている。陽子だけは何故かゲラゲラと笑っていた。 「ちー兄、報告、連絡、相談は基本中の基本ですが、立派な成人男性である、ちー兄にそれが何故出来ないのか、僕は不思議に思うし、また不安にも思います。自分の感情だけで動く、ちー兄の行動を自分勝手と呼ぶのを知っていますか?自分が同じことやられたらどう思うかよく考えてみて!僕は優佑さんが好きで、優佑さんも僕のことを好きだって言ってくれている。それを知ってて連絡があったことを、あえて本人に伝えないってのは…子供のイタズラか!それともなに?物忘れがひどくなったのか!いずれにしろ、立派な大人がやることではない。それに、仕事中に恋愛してるのが許せないって?自分のことを棚に上げてよく言うよ!社内恋愛はどうなの?同じことじゃないの?自分が一番わかってんじゃないの?どうなのか言って!ほら!言いなさいよ」 知尋と渚は社内恋愛で結婚した。それは会社内の全員が知っていることだ。上司である知尋が、部下の渚に手を出したということだ。 あはははと陽子が声を上げて笑った。 「はい、玖月が一本ね。あー面白かった。岸谷さん、とんだ兄弟喧嘩を見せてしまいごめんなさいね。この人たち、最近になって初めて兄弟喧嘩したもんだから熱くなっちゃうの。特に玖月が。今までいい子ちゃんだったから、怒る調整が出来なくてね」 コーヒーおかわりいる?と陽子が皆に聞いている。誰も手をつけないコーヒーは冷めていた。ムカムカとしている玖月が落ち着かせるために席を立ち、新しいコーヒーを入れにキッチンに行った。 その間も陽子の話し声は聞こえている。 「岸谷さんには、お世話になったと思ってます。あの子…潔癖症でしょ?それなのに手袋もマスクも外せるようになってて驚いちゃった。今も着けてないわね…今朝まで着けてたけど、やっぱり岸谷さんと会えて気持ちが落ち着いたんだと思うの。それは本当に岸谷さんの影響だわ、ありがとうございます」 「い、いえ…玖月くんは自分で努力していましたから…少しずつ潔癖症の症状が克服できてました。私の家の中や、近所に行く時はマスクや手袋は着けていませんでした。本人の意思の強さと、努力の賜物だと思います」 岸谷の声も聞こえる。そういえば今日、高坂の家で食事をしてからずっと手袋とマスクは外していたと、今になって気がつく。 「それに、ねっ。色んな話をしてくれていたんだというのを知ってます。仕事も今では前向きになって、やりたい事とかいっぱい提案してくれているんですよ。岸谷さんがアドバイスしてくれたって聞いてます」 新しく入れ直したコーヒーを皆に出した。今度はみんな手を伸ばし飲み始める。コーヒーのいい香りがする。それに温かいものが身体に入っていくと気持ちも更に落ち着く。以前、岸谷がそんなことを言っていたなと思い出す。 「知尋、もういいでしょ?実際、知尋だってもう認めてるんでしょ?岸谷さんと玖月は引き離せないってわかってるはずよ。さあ、玖月はこれからどうするの?岸谷さんのところに行くの?」 陽子がまとめてくれている。玖月も言いたいことを言ったので少しスッキリしている。それに、知尋に反対されたところで気持ちが変わるわけではない。反対されても賛成されても、この後は岸谷と一緒に暮らしていく。この先ずっと。 「母さん、ありがとう。今日から優佑さんの家に行く。それと…ずっと結婚すれば、一人前になるって勝手に考えてて、そうなれば、ちー兄みたいになれるから…母さんが喜んでくれるかなって思ってたけど、今は結婚より大切なものがあるってわかった。仕事もそうだし、優佑さんとの生活もそう。優佑さんが好きで、僕はこの人についていく。そう自分で決めたんだ」 「荒木さん、知尋くん。玖月くんを必ず幸せにします。大切にします。どうかよろしくお願いします」 岸谷が頭を下げたところで「ひとつだけお願いがある」と陽子が真剣な顔で言った。 玖月も岸谷も、陽子から『お願い』と聞き緊張して待った。知尋も陽子の言葉は気になるようだ。 「玖月から別れるって言った時は、別れてもらう」 その陽子からの言葉を聞いて咄嗟に玖月が答えた。 「えっ?別れないよ?何言ってるの?」 何を言っているんだろうと玖月は思っていた。好きになったと伝えたばっかりなのに、なんでいま別れる話をしなくてはいけないんだと、悲しくなってしまう。 「いや…玖月そういうんじゃない…荒木さん、わかりました。そうならないようにこれから先、常に最善の努力を続けていきます。その言葉を肝に銘じて玖月くんと末永く生活を共にしていきます」 深々と岸谷がお辞儀をしていた。 「ってね!大丈夫よ!玖月。認めないわけじゃないから。どちらかというと、私は認めてるわ。岸谷さんに大切にしてもらいなさい。それに、結婚?そんなこと考えてたの?バッカねぇ、そんなんで一人前になれたら簡単だわ。目の前に大切なものがあって、それを選ぶ、自分で決めることが出来れば一人前よ」 あははっとその場の空気を変えるように、陽子は豪華に笑った。 「母さん…ありがとう」 「それに、これも結婚みたいなもんじゃない。今日は、その挨拶みたいなもんでしょ?ね、岸谷さん」 陽子はニコニコと顔では笑って岸谷を見ているが、岸谷は緊張した面持ちのままでいる。なんだか見ているのが怖い。 「もちろんです。そのつもりです。大切な玖月くんをいただきに来ました。生涯、玖月くんと共に過ごしていきますというご挨拶です。先程のお言葉も忘れません。玖月くんが生涯笑って過ごせるように、覚悟を持って大切にします」 「ふふふ、ありがとう、岸谷さん。玖月のこと、どうぞよろしくお願いします」 やっと陽子から本当の笑顔が見られたようだ。もう一度、ありがとうと玖月は言い、実家を後にした。

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