53 / 61
第53話 岸谷
会社に出勤し、それなりに忙しく時間をやりくりしていたが、着々と片付き始め終業時間になる。このまま家に帰っても玖月はいなくひとりだし、かといって会社に残る必要もない。
明日になれば玖月を迎えに行けるが、残る今日という一日をどう過ごすのか、岸谷は持て余していた。
ここはやはりジムに行き、体を鍛え、汗を流すことにするかと、会社を出てジムに向かった。
だが、張り切っていたのも最初だけ。ランニングマシーンやトレーニングマシーンをひと通りやり、ぽつんとジムのベンチに座っていた。まだ帰るには時間は早すぎる。
「…おい!何をぼんやりしてんだよ」
声のする方を振り返る。
「ち、知尋〜!」
玖月の兄の知尋が突っ立っていた。
◇ ◇
「…で?それでどうなったんだよ。結構大変だな。あっ、すいませーん!生ビール追加で!お前は?」
「あ、うん。俺も生おかわり!あと、焼き鳥とさつま揚げも」
ジムでばったり会った知尋を連れて近くの居酒屋に来ていた。そういえば、同じジムに通ってるって玖月が言ってたなと、思い出す。
知尋とはあれから頻繁にメールや電話でやり取りをしていた。知尋は取引先でもないし、会社とは関係なくなったし、それがよかったのか、お互い言いたい放題いう仲になっていた。同じ年とわかり、いつのまにか名前で呼び合い、貶しあうこともある。まぁ、なんだかんだで、いい関係ってやつで丸く収まった感じになっている。
昨日から玖月が実家に帰っているのを知尋は知っているから、何してんだ?と、もちろん岸谷は言われていた。
高坂の会社の後継の話、それと玖月を傷つけた家族経営の話を知尋にした。家族経営の話をすると知尋は爆笑していたが、高坂との後継の話には、真剣に聞いてくれている。この辺は乙幡の反応と知尋は同じだった。
「まあ、この前は俺もイラッとしたから親父に言い返して終わりにしたけど、なーんか後味悪いんだよな」
「そうか。よくわかんないけどさ、酒の業界っていうの?やっぱりそういうところは、後継問題とかあるよな…長男が継ぐことが普通なのか?」
「うーん、そうだな、よくあるみたいだけど。それこそ家族経営が基本らしいし…だけど、俺だって自分の会社が大事だしさ、いきなり辞めてこっちに来いなんてな…そりゃねぇよな」
「だよなぁ、他にやれる人いないのか。お前が妥当だというのは、まぁわかるよ。それに、親父さんとか家族ってさ、適当にあしらえないところあるじゃん。だから余計に慎重になるだろ?」
会話の内容は重いが、知尋が真剣に聞いてくれて、気持ちが少し軽くなる。それに明日は休みだから気兼ねなく飲める。
「そうなんだよ…だから余計厄介でさ、あっ!すいませーん、俺ハイボールね、お前は?知尋、何飲む?」
「あっ、俺もハイボールで!…つうかさ、お前、いい加減にしろよ?玖月を怒らせるなって。昨日からまたツーンってしてるぞ。俺は今、ものすごく肩身が狭いんだから」
「何でだよ、何でお前の肩身が狭くなるんだ?あ、あれだろ?渚ちゃんは出産で里帰り中だから何かあるのか?あっ、違うあれか!お前、もしかしてひとりだと洗濯とか掃除出来ないタイプなのか?ヤベぇな」
「違うよ、そんなんじゃないって。いや…お前が挨拶に来ただろ?その後に、陽子さんと渚に、ものすごく、ものっすっごく俺は叱られたんだ。まぁ、俺が行きすぎた行動とったのが悪いってわかってるけど。それでもあの二人にめっちゃくちゃ怒られたんだよ。陽子さんなんて般若みたいだった」
知尋はあの後、身内からことごとくダメ出しをされたようだ。人の気持ちをわかっていない、やることが裏目に出る、ひとりで突っ走るなと。そりゃあもう、凄い言われようだったそうだ。
知尋のあの時の行動は、玖月を思ってやって行き過ぎたことだったと、今だとわかるし許せるが、当時は岸谷も玖月と連絡が取れず必死だった。それを、陽子と渚も同じことを言っているそうだ。
「あああ…俺、玖月に嫌われたかなぁ…お前と会わせないようにしたんだもんな、そりゃあ嫌がられるか」
「いや、そんなことないぞ?玖月はいつも、ちー兄はすっごいんです!何でもできるんです!って、俺に自慢してるから。だから嫌われるってことはないな。あっ!すいませーん、ハイボール二つね」
「マジで?!嬉しい…俺の玖月」
「おい!やめろよ、俺の玖月だろ!ふざけるなよ」
あはははと、知尋はふざけて笑っている。嫌われてないとわかって、急にうれしそうにしている。意外と知尋は単純だ。
「明日、陽子さんのところに迎えに行くから。もう仲直りしてるし、大丈夫だよ。ごめんな、知尋。玖月は大丈夫?マスクとかしてない?」
その辺は心配だ。また玖月の潔癖症がぶり返したらとずっと考えていた。
「ああ、それは大丈夫。マスクも手袋もしてなかったぞ」
よかった。潔癖症は出ていないようだ。ひとりにさせてしまい心配だった。早く迎えに行きたいとそればかり考えていた。
「いや、優佑、マジで頼む。玖月は真面目で素直なんだから。ちょっとしたことで、すぐ心配しちゃうんだ。そうじゃなきゃ、あんな面倒くせぇ潔癖症なんかならないぜ?あのキチっとした性格だから、ああなるんだよ。しっかりしろよ、本当に。家族経営はバカ息子がやることなんだとか言って、俺だったらウケて爆笑して終わりだけど、玖月は素直に受け止めちゃうぞ?」
「おぁぁああ…だよなぁ。本当に反省してる。俺、玖月がいないとダメなんだ。俺、ひとりで部屋にいるのも、もう耐えられない。早く会いたい…迎えに行きたい…」
「うわっ、キモっ!あっ、すいませーん!ハイボール二つ、おかわり!」
「キモいって言うなよ!まあ、聞けよ。潔癖症だって出てないからよかったって思う反面、そうやってどこでも慣れていってしまうさみしさもあるんだよ。俺の前だけで克服してたのに。それと、玖月を紹介するとみーんな玖月と仲良くなっちゃう。いいんだけど!別にいいんだけど!嬉しいことだけどね!俺のわがままだけど!」
ハイペースで飲んでいたので、酔いが回っているのかもしれない。知尋もよく飲むから二人で飲むのは楽しい。
「お前、キモい…と言いたいところだけど、わかる!俺もよーくわかる。渚と玖月が仲良いわけ、俺が知らない渚のことを玖月は知ってたりするの!なぁ、どう思う?今回の陽子さん家の部屋の片付けだってよ、俺も手伝うって言うのに三人でキャッキャしてんだぜ?俺が父親なのに。赤ちゃんの服だって、三人で交互に買いに行ってさ、俺は入れてくれないわけ!」
「かぁーーっ、お前も大変だな、知尋」
「だろぉ?そうだろ?渚は今里帰りしてるし…家にいてもひとりだし…こっちに帰っても陽子さんに渚と赤ちゃんを取られそうだし。俺も仲間に入れて欲しいのに」
焼き鳥を食べながら知尋の愚痴を聞く。案外、コイツも溜まってるんだなと同情する。
「わかる!取られないってわかってても、心配しちゃうんだよな。だからお前の気持ちもわかるよ。それとなぁ、陽子さんに言われたことあるじゃん『玖月から別れるって言った時は、別れてもらう』ってやつ。あれは痺れたよなぁ、毎日肝に銘じてるよ」
「ああ、あれな。実は俺も言われてる。渚と結婚する時に陽子さんに言われた。渚から別れたいと言ったら無条件で別れろって。マジで怖くね?俺、陽子さんの息子だぜ?なんで?」
陽子の言葉を訳すと、岸谷や知尋の気持ちや意見はないのだ。所謂、お前らには選択することすら出来ない。全ての主導権は玖月と渚にあるということだ。その言葉をもらった二人の男は居酒屋で身震いした。
「うわ!ヤベぇ。陽子さん、こわっ」
「だろ?こわっ!」と、言い合った。
飲んで食べたのでお腹が膨れた。二軒目行こうぜと酔っている知尋に誘われる。
「お!じゃあさ、俺んとこで飲み直ししよう。うちの酒あるよ?そうだ!明日、玖月を迎えに行くから、お前も送って行くから今日は泊まれよ。渚ちゃんいないんだろ?そんで明日は陽子さん家でいいんだろ?」
「おお!マジか!いいの?お前のとこの酒飲みたかったんだ。じゃあ、そうしよう。早く行こうぜ」
ここから歩いてすぐのところに岸谷のペイントハウスがある。家に着いたら、お互いのパートナーに連絡入れようということになった。好きな人の声を聞きたいと思うのは、岸谷も知尋も同じようだ。それについては、キモいとはお互い言わない。
ほろ酔いでコンシェルジュの前を通り、ペイントハウスまでエレベーターで昇る。
「へえ…すげえな、ペイントハウスって。ワンフロア全部自宅なんだろ?」
「うん、そうだよ。横に長いからさ掃除は面倒だけど、ゲストルームもあるし。でも玖月がいないと寂しい…」
「だからお前、それはキモいって」
ふざけ合って玄関を開けると見覚えのある靴が置いてあった。
「あっ!玖月!いるー?」
大声を上げバタバタと部屋に上がると玄関に向かってくる途中の玖月と会った。今日帰って来てくれていたんだと感動する。玖月とやっと会えたと抱きしめる。
「あれ?飲んでます?えっ…ちー兄?」
ギュウギュウと玖月を抱きしめているが、玖月は冷静な声で後ろに突っ立っているであろう知尋に声をかけていた。
「えっ、いやぁ、お邪魔しまーす…」
知尋の声が背中に聞こえた。
ともだちにシェアしよう!