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ハリー、メリー・メイアー

 執務室で腹心達に取り囲まれ、疲れ果てた様子を隠しもしない。両手で顔を覆っているハリーに、エリオットは決然と言い放った。 「ヴェラが君と結婚する事になった。おめでとう」  微動だにしない新郎1と違い、彼の正面に立つ新郎2は涼しい態度を崩さない──ふりをしている。目の下に浮いた隈は隠しようがない。口角の端は今にも捲れ上がり、この場では徹底的に不謹慎な笑みを浮かべそうな形で引き攣っていた。 「心配しなくても、州知事になった後位にしれっと離婚すれば良いんですよ」 「最短で7年」  殊更気楽な調子で作った己の慰めを、ぼそりと一言の呟きで地の底まで引き下げられ、ゴードンはモーを横目だけで殺そうとする。 「これまでと何も変わらないよ。あくまでも法律上の問題さ、配偶者だなんて重く考えずに、家族が1人増えると思えばいい。君に万が一の事が起こった時に、彼が中心になって動く事だって、今と変わらないだろう」 「僕はオープン・マリッジを推奨しています。貴方のアナルについてとやかく言う野暮なことはしませんのでこれからもエル達と思う存分ファックを楽しんでください。気にしませんよ本当に」 「僕が気にするんだよ」  抑揚の徹底的に薄い口調で一息に叩きつけるヴェラスコへ、ハリーは健気に立ち向かう。肺の空気が全て吐き出す深い溜息の後、ようやく顔は持ち上げられた。 「これでも、カトリックの教義で育てられているものでね。そもそも同性婚自体……他人がする分には喜ばしい事だと思うが、自分自身のことになると」 「ヴェラも確か君と同じ教区だったかな」 「少なくとも5年は足を運んでいないけど、これからは毎週末ちゃんと通うよ」  20分前、トイレにて並んで用を足しながら、ゴードンが耳打ちしてきたのを思い出す。 「なあ、エル・エリオットよ。これは案外名案かもしれないぞ。ハリーは変なところで誠実だから、いざ家庭を持ったら多淫症だって落ち着くかもしれん」  その可能性を全く考慮していなかったと言えば嘘になる。幾ら幼少期からのすり込みがあるからと言って、事もあろうか何故あんなにも同性愛に不寛容な宗教を捨てないのか。日曜の礼拝にも時間を見つけて通っているそうだし、比較的信徒が多いこの街において、有権者と親交を深める為だけにしては、熱心過ぎる。  結局のところ、ハリー・ハーロウは根が真面目なのだろう。政治家として好ましい資質かどうかはさておき、この側面を知れば、人は皆きっと、彼を好きになる。まだ誰も、彼のことを知らない。知らしめるのがこのチームの役割だ。 「これで、何とかなるんだな」 「なります。適度にプライベートでもこいつを連れ回して、一緒にシュラスコでも何でも食いに行けば、理想の夫の出来上がりです。ついでに養子を取れば最高なんですが」 「僕は子供が苦手だ」  つらつらと言ってのけるゴードンを一蹴し、ハリーは直立不動のヴェラスコに向き直った。 「君は、それで良いんだな」 「まるで僕だと不満みたいな口ぶりですね」 「いや、不満と言うか。親御さんが孫を見たいと言っていたって……」 「家族計画については後ほど考えればいい。発表に先立って、ヴェラを主任補佐官に昇格させるのはどうだろう」  割って入るように、エリオットは身を乗り出した。 「これまでも兼任みたいなものだったが、幾らなんでも彼への負担が大き過ぎると以前から思っていたんだ。せめて広報担当に助手を入れれば」 「いい加減にしてくれ! そんなのどう考えても、枕営業で辞令が出たと思われるだろう!」  胸倉を掴んで引きずるよう腰を上げさせられた時、ハリーは完全に油断していた。 「あなた、僕のことが可愛いって、いつも言ってたじゃないですか」 「え、うん。そうだな、小さくて……」 「ああ、そうとも、僕は可愛いんだ!」  可愛い男は、こんな熱烈なキスを公衆の面前でしない。ガチッと歯がぶつかる音の聞こえる濃厚な交わりに、ゴードンが肘で脇腹をつつく。 「『イーリング・クロニクル』のブン屋どもの前でもやらせるか」  幾ら情熱へ突き動かされているにしても、いい加減長過ぎる。顔を顰め、エリオットが左腕の腕時計を掲げた時の事だった。舌を絡ませ口腔内を探る粘ついた音とは違う、すん、と鋭い響きが、居た堪れない部屋の空気を益々気まずくする。  弾かれたように顔を離し、ハリーは自らを蹂躙していた男の目をまじまじ見つめた。 「ヴェラ」  うわああ、と悲痛な叫びが響くまでに時間は掛からない。見開かれた大きな目から、ぼろぼろと、大粒の涙が次々に頬を伝い落ちても、ヴェラスコは拭う素振りすら見せない。例えここが法廷で、彼がドナルド・トランプを無罪にしようとしているとしても、居合わせる全ての人間が同情しそうな手放しの嗚咽だった。  伸ばされたハリーの手が汚れた顔へ触れる前に、ゴードンが立ち尽くす身体を抱えて引き剥がす。 「一旦休憩しましょう。落ち着いたら、若い2人でごゆっくり相談して下さい」 「ああ、勘弁してくれ!」  再びどさりと座り込まれ、大きな尻を受け止めた椅子が叫ぶような音を立てる。組んだ手に顔が伏せられた時、ハリーの声はすっかり悲嘆に暮れ、ぐっしょり濡れていた。 「どうしてこんな大事に……」 「市長、大丈夫ですか」 「大丈夫だよ、モー。あと15分したら、彼にコーヒーを淹れて持ってきてくれるかな」  今出せる最大限に優しい口調で、それまでは面会謝絶だと含ませたのは、渋々受け入れられる。心配そうに何度か振り返りながらも、モーは引っ立てられるべそ掻きに追いついた。いくら両側から背中を摩られても、肩を震わせながらの泣きじゃくりが治まることはない。  子供のような後ろ姿がドアの向こうに消えたのを確認し、エリオットは執務机に向き直った。 「ハリー、嘘泣きしても駄目だよ。気持ちは分かるが」 「分かるもんか」  ちらりと投げかけられた上目遣いに、予想通り潤みの気配は見られない。100%無駄だと分かっているのに芝居をしてしまうのは、彼が完全に政治家の入り口へ立った証拠だろう。先が思いやられる──これからもっと、凄いことをして貰う必要があるのに。  吸ってもいいかと聞かずに電子煙草を取り出したエリオットを、ハリーはしばらく睨みつけていた。が、やがて諦めたように背もたれへ身を預ける。 「やはり止めておいた方がいい。特にヴェラへは酷だ」 「彼は有能でガッツがあるし、それに見合った扱いを受けたいと思ってる。決断を尊重してやれ、これ以上無碍にしたら、屈辱で事務所の窓から飛び降りかねないぞ」  同じローファームの後輩でもあるヴェラスコのことを、ハリーがかなり甘やかしているのは、誰の目から見ても明らかだった。引きずられるようにして己達も、弟のように扱う事が多い。何より本人も、都合の良い時は利用している癖に。 「ガッツと、それに忠誠心があるのは確かだな。見直したよ」 「違う、ハリー。彼は欲尽くだけで君との結婚を決めた訳じゃない。しっかりと君を愛してるよ」 「なら余計に問題だ」  眠たい赤ん坊のように唇を撫でながら、ハリーは目を細めた。 「君達……本気で結婚させる気か?」 「ラッパは吹くが、ホラは吹かない。君の承認さえ得れば、式の手配だってする」 「くそっ、くそっ、くそっ!!」  しばらく好きに喚かせておきながら、エリオットは胸一杯に毒素を吸い込み、肺胞への自傷行為を続けた。式は、この小さな街で挙げなければならないだろう。立ち会ってくれる神父がいる教会なんて、果たしてあるのだろうか。  駄々が収まったのを確認し、汗だくの後頭部へ、紫煙越しにゆるゆると下目を投げつける。 「君が結婚に拒否感を持っているのは、ライフスタイルの問題だけじゃないな」 「だって、フロリダじゃ指輪を交換出来ない人もいるのに、僕はこの神聖な儀式を悪用しようとしてる」 「愛のない結婚なんて男女でもやってるよ。友達婚って言うのかな……それこそお互いの利害が一致した時もね」  目の前の男だって百も承知だろう。頭の理解と心の納得の溝を埋めるのは一朝一夕には難しい。分かっていながら、エリオットは諭すしかなかった。 「男女がやってる事をゲイがしてはいけない法もない。私達の同胞がうちの州で権利を得る為に尽力したからできるんだ、先人に感謝して結婚しろ」 「ああ、聖母マリア様……」  嫌味ったらしい唸りを掻き消すように、扉がノックされる。 「何か食べるものはお持ちしますか」 「いらない!」 「分かりました。それと」  癇癪混じりの返事をぶつけられ躊躇いながらも、モーは言葉を最後まで言い切る。彼はこの先きっと、素晴らしい秘書になるだろう。 「ヴェラが、披露宴はアジアのリゾートで行いたいと」

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