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ネグレクト

 タクシーに乗って女が帰っていった後、コーヒーを豆から丁寧に()れた。それをソファに座ってゆっくり飲む。病院のカフェとは違い、無音のリビングは千晃を落ち着かせてくれる。1人になってやっと寛げる時間がきた。  ふいに、ブルブルと携帯が震えた。面倒くさいなと思いながらも、急患の可能性もあるので、重い腰を上げる。テーブルに置きっぱなしだった携帯の画面を(のぞ)いた。 「…………」  電話ではなく、メールだった。しかも、自分が最も望んでいない相手からの。 『今度学会で東京へ行く予定があるから食事でも』  前置きの挨拶もない。たった一行のメールだった。断るための言い訳を即座にあれこれ考える。ここ数回、断り続けてきたので、相当良い言い訳を考えなければ苦しいかもしれない。  家族に最後に会ったのはいつだったか。千晃からしたら、もう一生会わなくてもいいぐらいなのだが、体裁を気にしてやたらと家族団結を主張する家族たちから逃げるのはなかなか至難の技だった。いっそのこと、勘当してくれたらいいのに。  家族は大事だと主張するくせに。千晃は両親に大事にされた記憶などなかった。幼い頃からずっと。  千晃は、東海地方で有数の病院を経営する一家の長男として生まれた。記憶はないが、生まれてすぐはそれなりに幸せな時間を過ごしていたようだ。千晃を産んだ母親は、千晃を愛情込めて育ててくれたらしい。  しかし、そんな日々は長く続かなかった。母親が突如、事故で他界したのだ。その後すぐに父親が再婚し、新しい母親が来たのだが。その継母は千晃のことが疎ましくて仕方がなかったようだ。虐げられる生活が始まった。  ネグレクト。そんな言葉がぴったりな扱いだった。父親は父親で気づいていたくせに、気づいていないフリをした。金に物を言わせ、物を与えておけば問題ないだろうと高をくくって、家庭の問題を放ったらかしにし続けた。  千晃は次第に心を閉ざすようになり、無口で感情を出さない子供になっていった。それがまた、継母には可愛げなく映ったようだ。ますます存在を無視されるようになり、千晃の世話は、雇われた家政婦がほとんどしていた。

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