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あそこにいるのなら

 懸命な処置の結果、搬送されてきた幼児(女児2名)の命の危機は乗り越えた。しかし、交通事故の後遺症はかなり深刻に残りそうだった。最悪、体に麻痺(まひ)や言語障害などが起こり得る。特に2人の内1人の女児は顔に大きな傷ができており、先々のことを思うと胸が痛んだ。  疲れた。  緊張から解放され、どっと疲労が千晃にのしかかる。ほんの数時間前までは、穏やかな日だなどと悠長に考える余裕があったのに。  とりあえず容体は安定しているので、救命の医師たちに任せて帰宅することにした。時刻を見ると、夜9時を回ったところだった。帰る前に控え室に設置された小さな洗面所で手を洗う。発作とは関係なしに、ずっと続けているルーティーンだ。  ふと、気配を感じて顔を上げた。 「あ」  誉が鏡の中に立っていた。少し前髪が()れている。千晃を認めると、そっと微笑んだ。いつもの花が咲くような笑みではなかった。笑っているのに寂しそうで、そして悲しそうだった。 「どうした?」  そうゆっくりと口を動かして話しかけた。誉の様子がおかしかったので、ペンと紙を出す手間を惜しんだ。千晃の口の動きを見て何と言ったのか理解したらしい。誉が軽く首を振った。なんでもない、と伝えたいようだった。そこで、誉が上半身裸なのに気づいた。こちらの鏡が小さく下半身まで見えないので、全裸かどうかまではわからない。  自宅ではなさそうだなと思い、誉の肩越しに僅かに見える背景を確認して納得した。どこかのプールのシャワー室にいるようだ。後ろの壁に、プールへの入り口を示すサインが見えた。そこで、あることに気づく。  そのサインと、シャワー室。  それには見覚えがあった。  間違いないと確信を持った瞬間。だれかがシャワー室に入ってくるのが見えて、ふっと誉が消えた。今回は短い対面だった。  でも。今もし、本当に誉があそこにいるのなら。  答えが出るより先に体が動いていた。  千晃は素早く帰り支度を済ませると、逸る気持ちを抑えながら控え室を飛び出した。

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