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会いたい
誉 side
「こちら、ロッカーの鍵です」
「ありがとう」
差し出された鍵を受け取って、着替えるためにロッカールームへと向かう。このジムに入会してから3回目の来館だった。トレーニング機器で体を動かしてから、サウナと風呂でゆっくりと汗を流して帰るのが誉の定番だ。まあ、まだ2回しかしていないので、定番と言えるほどでもないのだが。
もともと体を動かすのは好きで、昔から時間があればジョギングなどしていたが、こうして定期的に運動をするのは久しぶりだった。
ジムには興味はあったが、職業柄、夜は休み以外では通えないし、昼間は店長になってから事務仕事や開店準備等で忙しかったので、入会しても元が取れないだろうなと思って諦めていた。今はだいぶ楽になったが、昔は金銭的余裕も全くなかったし。
そんな自分が、コストパフォーマンスを無視してなぜ急にジム通いを始めたかと言えば。
ロッカーを開け、スポーツバッグを中に入れる。運動着に着替えながらさりげなく周りを見回して、彼の姿を探す。
突き刺すような視線を放つ彼。
そう。千晃にまた会えることを期待してのことだった。
鏡の中の彼に、まさかこんなところで会えるとは思ってもみなかった。しかも。
まだはっきりと感触を覚えている、千晃の唇。彼とキスを交わすなんて、だれが予測できただろうか。ろくに言葉も交わしていないのに。
あの日は、例のホストの男に強引に誘われて、断りきれずに嫌々このジムに体験入会したのだった。人のいる水場に近づくのは乗り気じゃなかったのだが、男の我儘 で、まずプールで泳ぐことになった。
しばらくすると、例の発作が現れた。最近は母親のことを思い出すことが少なくなっていたので大丈夫かと思っていたのだが。休憩中、プールの水が揺れるのを眺めていたら、海のイメージと共に、母親との出来事が急に蘇 ってきたのだ。
急いでシャワー室に飛び込むと、幸いにもだれもいなかった。備え付けの洗面所の蛇口を捻って、必死で顔を洗った。震えが収まり、一息ついて顔を上げたら、鏡の中に千晃がいた。白衣を着ていたから勤務中なのだとわかった。なんだかホッとした。千晃の顔が見られて。突然、泣きたくなった。
会いたい。
強くそう思った。
『どうした?』
千晃の口がそう動いたのがわかった。でも、言ったところで千晃を困らせるだけだと思った。だから言わなかった。会いたいとは言わなかった。なのに。
それから数十分後。鏡越しではない、生身の千晃が、誉の視線の先に立っていた。
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