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逃げられない

「うわー」  駅の改札を抜けて構内を出ると、土砂降りの雨が降っていた。確かに今日は1日曇り空だったが。こんなに天気が崩れるとは思っていなかった。天気予報なんて全くチェックしていなかったので、傘も持っていない。  仕方なくしばらく待ってみたが、一向に止みそうになかった。勿体(もったい)ないなと思いながらも、売店でビニール傘を購入して駅を出た。  急いで帰る必要もないので、傘を時々くるくると回転させながらのんびりと帰り道を歩いた。雨のせいか、アパートへと続く細い住宅街の道はいつもより人気がなかった。雨がビニール傘を激しく(たた)く。ぼつぼつと鈍くて重い音が傘の中に響いた。  ようやくアパートの階段下へと辿(たど)り着いた。傘を閉じて、階段を上がる。小さな踊り場を抜けて、自分の部屋へと鍵を探りながら歩いていると。  ふいに、背後に人の気配がした。玄関前で立ち止まって振り返る。驚きで体が強ばった。 「お前……」  誉の真後ろに、あのホストの男が立っていた。全身ずぶ()れだった。生気のない青白い顔でじっと誉を見つめている。 「なんで……」  どうしてこの男がここにいるのか。もしかしたら、後をつけられていたのだろうか。でも、いつ、どこから? 全く気づかなかった。男は表情を変えずに、ぼそりと口を開いた。 「……待ってた。帰ってくるの」  ということは、待ち伏せされていたのか。でも。 「……どうやって知ったんだ? 俺がここに住んでること」 「追っかけた。先週、焼き肉屋にいたよね? あの男と」 「…………」  見られてたのか。 「店から出てくるところを見たから」 「でも……駅から車だったのに……」 「タクシー拾った」  タクシー運転手もさぞ迷惑だったに違いない。数分で降りる客なんかを拾って。 「やっぱり、あいつとヤってたんだ」 「ヤってない」 「変だったもんね。サウナん時」 「…………」 「相手がマネージャーだったらさぁ、俺の方が全然上だと思うし、まだ見逃せたけど」  あの男は、なんか許せない。そう続けて、男が虚ろな目で誉を見つめてきた。その、どこか狂気めいた異常な雰囲気に、誉の中で危険信号が灯る。警戒して少し後ずさりをするが、男は誉のそんな様子を気にも留めず、無表情のまま会話を続けた。 「しかも誉さん、勝手に辞めちゃうし」 「……それは、別にいいだろ。俺のことなんだから」 「よくないよ」 「なんで」 「だって、誉さんは俺のもんだし」 「は?」 「飼い主に黙って逃げ出すなんて恩知らずだよね」 「…………」 「お仕置きがいるよね」 「何言って……」  その瞬間。細長い物体が視界に飛び込んできて、咄嗟(とっさ)に口をつぐんだ。男の手には、サバイバルナイフが握られていた。背中にぞくりと悪寒が走る。無表情だった男の顔が、ゆっくりと笑顔に変わっていった。まるでスロー再生しているかのようだ。男の口角が(ゆが)みながらじわじわと上がっていく。  なんとかしないと。そう思うのに、体が凍ってしまったように動かない。声も出せない。恐怖で微かに足が震え出す。鼓動がどくどくと速くなる。  さっきから、雨の音しか聞こえない。激しく(たた)き付けるような雨の音。この世界に自分と男だけが取り残されてしまったような気になる。  重く湿った空気がじわじわと2人を包み始めた。この空気に取り込まれたら、もう逃げられない。本能的にそう感じる。しかし、体は動かない。  男の手がぬっと伸びてきた。  誉はその場に立ちすくんで、その手に自分が飲み込まれていくのを、ただ為す術もなく眺めていた。

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