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息苦しい

 そうやって迷う気持ちが、誉との距離をずっと平行線に保っていた。だが、あの日はどうしても会いたくなって、半ば衝動的に車の鍵を手にして家を出た。期待半分で誉との会話の断片から推測された駅を順番にウロウロと捜索した。まさか本当に誉の勤める本屋へ辿(たど)り着けるとは思わなかった。  しかも、誉のアパートへと上がり込んだ上に、自分の気持ちが抑えきれなくなるとは。自分はもう少し理性が効く人間だと思っていたのに。  潤んだ瞳に、少し顔を赤くした誉の顔。あの、薄く乾いた唇を無性に奪いたくなった。  でも。あの時、急患の知らせに邪魔されたのは結果的に良かったのではないかと思う。お互いの気持ちも不確かなまま先に進んでは本末転倒だ。  あの夜の誉を思い出したら、また会いたくなった。本来なら今夜はジムで会える日だったのだが。 「失礼いたします」  軽いノックの音に続く店員の声で、我に返る。 「こちらです」  店員が扉の向こうでだれかに声をかけた。千晃の緊張が一気に増す。扉から、恰幅(かっぷく)の良い中年の男がのっそりと入ってきた。2年ぶりぐらいに会ったが、あまり変わっていなかった。仕立ての良いスーツを着て、相変わらず不機嫌そうな顔をしている。  千晃の父親は、軽く千晃を一瞥(いちべつ)すると、おう、と一言発して席に着いた。相変わらずの横柄な態度に千晃は心の中で苦笑いした。  食前酒を飲み、コースが運ばれ始めるまで、お互いほとんど言葉を発しなかった。千晃から愛想良くするつもりは更々なかったし、父親も息子が気を使うのが当たり前だと思っているような人間だったので、話が盛り上がるわけもなかった。予想していたことだったが、やはり父親と2人きりの空間は息苦しい。

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