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誉
千晃はそこへ向かうことを決めて、車に乗り込んだ。しかし、時刻を確認して思い留まる。まだ夕方だったため、おそらく店自体が開いていないところがほとんどだろう。
待つしかないか。
そう思ったところで、軽い目眩 に襲われる。体が低糖状態になり、ふらつくような感覚がした。そこで、朝から自分が何も食べていないことに気づいた。一旦、自宅へ戻って何か腹に入れよう。食欲がなくても動くために食べなければ。そう思い、ジムの駐車場から出ると、車を自宅へと走らせた。
玄関を開けて、静まり返った自宅へと入る。いつもは安心する1人きりのこの空間が、なぜか今はよそよそしく感じた。その冷ややかな沈黙に耐えられず、部屋中の電気を点け、テレビの電源も入れた。
キッチンへと行き、インスタントラーメンと冷蔵庫にあったチーズを取り出した。何でもいいから腹に入れなければと思った。
変な組み合わせの食事をとにかく掻 き込んだ。味などなかった。食べている間中、笑顔で焼き肉を食べる誉の姿が離れなかった。たった3週間前のことなのに。もしかしたらあれは幻覚だったのかもしれないと思わせるぐらい、遠い出来事に感じた。
やっと出会えたと思った。自分が心から気を許せる相手に。まだ数ヶ月の付き合いなのに、どこか懐かしい感じすらした。突然、千晃の前に現れて。千晃の中に無遠慮に入り込んできて。けれど不思議と不快感はなくて。むしろ、安心感さえあった。今まで経験したことのない感情や感覚をたくさん千晃にくれた男。
もし、このまま誉と会えなかったら。
そう思った途端、微かに手が震え出した。もうずっと味わっていなかったあの感覚が押し寄せる。冷静でなくなっていく自分。感情を抑えきれなくなる自分。千晃は、手にしていた箸をその場に落とすと、立ち上がって浴室へ逃げるように向かった。
乱暴にドアを開け、急いで蛇口を捻る。必死で手を洗った。洗いながら、誉のことを考える。
誉。
ばしゃばしゃと水音が響く。
誉。
冷たくなっていく両手を執拗 に擦る。
どこにいるんだ。
誉へと問いかけた。その時。
何かを感じて顔を上げた。鏡の中に視線が釘 付けになる。
「……誉」
そこに、誉がいた。探していた、追い求めていた誉がいた。両目を大きく見開いて、千晃を凝視している。
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