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もう一押し
どこをどう走ったのか、覚えていなかった。日が落ちて暗くなった道を、ただ教えられた住所の方角に向かってハンドルを握った。
すぐに見つかるかどうか不安もあったが、住所近くの広い道へと入った途端、すぐに目的の場所がわかった。誉が見せた紙には番地までは記されていなかったが、マンション名と部屋番号は書かれていた。そのマンション名が大きく示された背の高い建物が目の前に現れたのだ。
マンション前に車を乗り捨てるように駐車して、車を降りるとエントランスへ走った。
パネルにある部屋番号を押す。応答はなかった。
考えてみれば、こんな堂々と正面きって訪ねたところで、相手が素直に通してくれるわけがない。
「くそっ」
なんとか入れないものかと考えを巡らせる。そこに、このマンションの住民らしき若い女が買い物帰りなのか、コンビニ袋を持って現れた。
チャンスだ。
その女がエントランスのロックを開けて中へと入るタイミングで、さっと後に続いた。女はちらっと訝 しげに千晃を見たが、こんばんは、と軽く微笑んで挨拶すると、怪しむ気持ちは消えたようだった。上目遣いで、こんばんは、と返してきた。
そのまま一緒にエレベーターに乗り込む。目的の階に着く間、女が色々と質問してきた。ここに住んでいるのか。一人暮らしか。初めて会うが最近越してきたのか。面倒だったが、怪しまれるのは避けたかったので、適当に答えた。女がさらに何か聞きだそうと口を開いたとところで、女の降りる階が来てホッとする。女は名残惜しそうな顔で千晃を振り返りつつ、降りていった。
1人になったエレベーターの中で考える。さて、ここからどうするか。玄関の鍵がかかっていないわけがない。誉が鍵を開けられる状態なのかもわからない。それに、誉を攫 ったやつが部屋にいるのかもはっきりとしない。インターホンの応答はなかったが、居留守を使っている可能性は十分あるし、もしそうなら、千晃がここまで来た事実は相手に知られている。だとすると、まともにぶつかったら返り討ちに遭うだろう。なんせ、誉にあんな暴力を振るっているやつだ。
そこで千晃はエレベーターを降りると、目的の部屋ではなく、その隣の部屋へと向かった。ゆっくりとチャイムを押す。しばらくすると、無言でそろそろと扉が開いた。チェーンで固定された扉の隙間から、年増の女が顔を覗 かせた。千晃は誉に習い、自分ができる精一杯の営業用スマイルを浮かべて女を見た。
「突然すみません。私は隣に住む者の友人なんですが」
「はあ……」
「実は、友人に頼まれて緊急で忘れ物を代わりに取りに来たんですけど、鍵を受け取るのを忘れてしまって。大変ご迷惑をおかけしますが、ベランダをお借りできないでしょうか?」
「え? ベランダ?? どういう意味??」
「一刻を争う緊急事態なんです。鍵を取りに戻る時間がなくて。電話で確認を取ったらベランダ伝いに入ってくれと頼まれまして」
「でも……」
「怪しい者ではありませんので」
そう言って、千晃は財布から運転免許証を取り出して、隙間から女に見せた。女はまじまじとその運転免許証の顔写真と千晃を見比べる。「あら、いい男」と呟 いた。
もう一押しだな。そう思い、さらに畳みかけるように話しかけた。
「必要ならば、職場に問い合わせていただいても構いません。医師をしています」
そう言って、病院名と電話番号を告げる。女は医師と聞いて安心したらしい。病院に確認することもなく、あっさりとチェーンを外し、扉を開いた。
こういう時に信用度の高い職業は役に立つなと思った。千晃が嘘 をついているしれない可能性を、女が考えなかったのは別として。
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