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愛してる母へ

『.....あんたなんか産まれこなければ良かったのに!!そうすれば、私は...っ!! 私は、普通の幸せを掴めたはずだったのに......』 母はそう言って僕の首を絞めた。馬乗りになって。 今、僕は冷静に目の前のことを見ているわけではない。 もちろん、息を強制的に止められているのだから、苦しいし、相手次第では蹴り飛ばすか、相手を傷つけてでも、その行為を止めさせるのが、筋だろう。 絞められた首に指と爪が食い込んでいるのが分かる。 もちろん苦しいし、きっと僕は、そういう表情をしているだろう。 けれど、抵抗することもなく、僕はそれを受け止め、母のやりたいようにする為、その苦しみを床に爪を立てることで受け流していた。母を傷つけないように、足もジタバタしてはいるが、床をすべるように踵で床を蹴る。意識はあるし、苦しいことには変わりないので、どうしても身体は生理的に最低限の抵抗をしてしまう。 呼吸が出来ない苦しさよりも、僕の知る唯一の血縁である母にそこまで疎まれているなら、このまま母の手でこの世を去ることも悪くない、と思った。 僕をこの世に産みだしてくれた相手ではあるが、育てられた、という記憶はほとんどない。 けれど、この世で唯一の人の手にかかるなら、それは仕方のないことなのだと思ってしまった。どうせなら、この人から、普通で良い、 普通の親子としての『愛情』が欲しかった。 その証拠に、首を絞められた息苦しさよりも、胸の痛みの方が大きかった。母子家庭に育った僕の世界の中心には、いつも母、アデリアがいたからだ。 一応、これでも、まもなく16歳になる身である僕は、すでに身体は母より大きければ、力比べをしたとしても、負けることはないだろう。 この日も、母の食事の支度やホスピタルへの入院への説得の為もあって、帰宅した僕の視界に入ったのは、ダイニングテーブルで、泣きながらクダを巻いていた母だった。 今度こそ、本格的にアル中のホスピタルへ治療の為に鎖に繋いででも入院の納得をしてもらわなければならないので、その説得も兼ねて帰宅した。 数週間はルームシェアをしてる部屋には戻らずに、説得に力を入れようと気合をいれ、同居人兼バイトの雇い主が旅行でいないので、ちょうどいい、とも思っていた。 ちょうど、大学を卒業したその日だった。 院生へ移るにしても、夏休みにも同時に入ってるので、まだまだ、そっちへ移るにしても時間がある。日本の学校と違い、新しい年度の始まり9月からなので、期間は充分だ。 バイトを兼ねて住み込んでいる家からの収入に、院生になれば、準教授の助手になることも決まっていたので、そちらの収入も見込めるので、お金の面で心配をかけることなく、ホスピタルへの入院をして、人生をやり直して欲しいと思った。 まだ、母は30代なのだから、充分にやり直せる年代だし、治療が終われば、母の働き口も紹介する手はずになっていた。 僕は他人より早く、大人になる必要があった。 その為の努力は惜しまなかった。 今までも何度か、カウンセリングを受けたり、強制的に専門のホスピタルへ押し込んだこともあったのだが、母は、何故か、そこを抜け出し帰って来てしまう。そして、酒を煽って酔っ払って、男を引っ掛けにいくのだ。セックス依存症の診断も受けていた。 とにかく、すべてに於いて治療が必要なのだ。 僕は帰宅するなり、母とまともに話が出来る状態になるのを待とうと、ダイニングテーブルを挟んで、とりあえず、母の反対側に座った。 「いい加減に酒に依存するのはやめろよ」 そういって酒瓶を取り上げた。そのまま、大学を無事に卒業したことを告げようとしたその時だった。 「返して!!」 そう叫んでからの母の行動は早かった。 泣いていたはずの母は、酒を取り上げた僕を確認するなり、突然、立ち上がった、と思ったら、椅子ごと僕を押し倒したのだ。何の身構えもしていなかった僕は、簡単にそのままひっくり返って今に至る。 話をする間もなく、母は鬼の形相で、僕の首を締め出したのだ。一言、 『卒業、おめでとう』 と言って欲しかっただけだった。 ふと、呼吸の止まった苦しさで意識が遠のきだし、渾身の力をこめて、手を持ち上げ優しく母の頬を撫でた。 『……ありがとう……愛してるよ……』 声の出せない僕が、口だけ動かし、出来る限りの笑みを作ったところで 僕の意識は途切れた。 走馬灯が見えたような気がした。

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