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ホスピタル 2

入れ替わるように入って来たのは、数人の私服の警官だった。 そこで前もって、話せないことを告げられていたのか、警官はあらかじめ、紙とペンを用意してくれた。幸いなことに、点滴は左手に刺さっている。 どちらでも字は書けるのだが、書き慣れた右手の方が、それなりに読みやすい字で書けるだろう。 そしてその警官は、僕に残酷な「現実」を突きつけてきたのだった。 いずれは知らなくてはならないことだし、母がどうなったのか、聞く義務があるのは間違いなかった。医師や看護師から母の話が出なかったには、理由があることに違いないし、少なくとも同じ病院にはいないだろう。 そして、警官は、静かな口調で、 『ショックを受けるかもしれないが』 という前置きをしてから、そのままの口調で淡々と語りだした。 筋書きとしては、こうだ。 母が僕を道連れに心中事件を図ったのだ。僕はかろううじて一命を取り止めたものの、精神的ショックと強度の首への圧迫が原因で、しばらくの間、言葉を失った。 僕は白目をむいて、口から泡を吹いていた状態で発見された。母の血を浴びて全身血まみれの上に、当然、心肺停止状態で、だ。 暴れてる音に近所の人が心配して家に来たら母が発狂して僕の首を閉めていたので警察を呼んだ。到着までの数分で母は自らの命を絶った。 蘇生処置をとると、奇跡的に息を吹き返した僕は早々に病院に運ばれて、気を失ってるうちに、検査を受けた。 部屋の惨状からして、僕も助からない、と思ったらしい。血の海の中に2人寄り添うように倒れていたという。 その時には、母は自ら頸動脈をバッサリと切り裂き、自分の身体に血を残さないほどの、出血多量で息絶えていたという。 病院のベッドの上で淡々と話す警察官の話を虚ろに聞き流していた。 頚動脈に包丁で深く切り込まれた首筋は、まるで他人が切り裂いた、と思わせるほど、躊躇い傷もなかった、のだそうだ。 吹き出した血液でアパートメントはダイニングの壁から天井から、真っ赤に染まるほどの惨状に、駆けつけた警官も、新人は外へ出て吐き、ベテランでも一瞬呆然としたらしい。 実際、僕はそれを他人から聞かされてるだけで、目にしてるわけでもないから、どうしても語尾を「らしい」としか表現出来ないのだ。 母が心中を図った理由を問われたが、答えることは出来なかった。はっきり云って、理由なんて僕が聞きたいくらいだった。 たぶん、付き合っていた彼氏に捨てられたのが引き金になったのは間違いないだろう、と筆談で返す。 よくも悪くも、あの家には僕の荷物は、ほぼない。元々ものに執着心を持つ方ではなかったし、貧しく育った環境下で、食料以外の買い物をする余裕すらなかった。母の私物も服以外には、何もなかった。唯一、父からプレゼントされた物が数点あるのみだった。 僕は実家からそれほど遠くない学生用のアパートメントで、大学の先輩ティティーとルームシェアという名のアルバイトをしていた。 衣類と参考書、教材、それらに付随した筆記用具以外に、やはり僕の荷物はなかった。同居記念に同居人が買ってくれた個人用のシングルベッドと机が僕の唯一の大きな荷物だった。 逆を言えば、それ以外のものは必要ないのだ。 毎日のように、ティティーの食事を余分に作り、夕食をタッパに入れて、母の元へは食事は運んでいた。寝ているときもあれば、家にいたり、いなかったりの生活だ。 放置をすると、アルコールしか口にしない母だったから、母親にまともな食事を摂らせないと、摂食障害を起こし兼ねない状態だったからだ。実際、大学も後半になると、母と顔を合わせる機会も減ってはいたが、食事を毎日タッパに入れては、冷蔵庫へ運んではいた。 食べていたのか、捨てていたのかは不明だが、次の食事を持ち込んだときにはシンクに放置された前のタッパをそのまま持ち帰ってはいた。 僕を若くして、産んだ母だったが、年齢を重ねる毎に、仕事も段々と減り出していたが、父からの仕送りはあったはずだ。 父は定額を振り込んでくれていたものの、ドルや円が変動するたびに入ってくるお金の金額が違うことも不安に感じていたようだ。 そこで問題が生じた。自立していたとはいえ、僕は未成年だ。そして養育権は母にあったが親権は会ったこともない父親にあった。 僕が未成年だったのと、母方の身内の存在を知らなかった僕は、紹介された弁護士を通じて調べてもらうも、 『絶縁しているので関わりたくない』 と一蹴されたという。 母の両親のことを聞こうとするが、弁護士は先方の母の実家に硬く口止めされているのか、所在さえ教えてもらえなかったが、ヨーロッパのとある国の小さな町に住んでいる、ということだけ教えてもらった。 ティティーが、僕の名前をドイツ系だと言っていたので、たぶん、ドイツのどこかにいるのだろうと予測できた。 完全に絶縁状態だった、父のことなど、すっかり頭になかったが、しばらくのして、父方の代理人という東洋人が現れた。

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