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ポーランドで開かれた国際コンクールが一番早いコンクールだったので、運試しのつもりで参加したコンクールだったが、一度のチャレンジで、国外開催の国際コンクールでのトップを取っての帰国後は、慌ただしい限りだった。 その会場にティティーが来ていたことなどは全く知らないままだったし、結果が見えることだけに、ピアノが楽しくて仕方なかった時期でもあった。 音楽教室に通い始めた頃は日本語がわからなかったので、クリスの名前で登録をしていたし、コンクールの履歴の関係で、音大へもそのままの名前で入学をした。 表立って誰かに認められる、ということはそれまでなかったことであったし、譜面に書かれた強弱をつけることによって、歌うようなピアノ( カ ン タ ー ビ レ )は自分で奏でているからこそ、気持ちいい。 作曲家の気持ちを表現しているような気持ちにもなれたり、口で語るよりも表現豊かに語っているような気持ちになっていた。 音楽は……ピアノは言葉の壁を越えて、足と腕を使って全身で音を奏でる。その音は言葉を話すより雄弁にその表情を伝えていると思った。 研究をしてるのも、物理数学を解いてる時も楽しかった。答えが出る問題ではあったが、ひとつ間違いがあると答えが大きく間違ってしまって、ナノ単位以下でのズレが生じる。 すごく極小の単位であると見えるが、そのズレが結果を大きく変える。研究結果とその計算が一致した時がティティーではないが、気持ちよく、快感になることは間違いないのだが、ビッチになるほどではない。 音楽教室と大学の悪ノリもあったのだろう。 度々勝手に応募をされてコンクールに出演していくうちに『コンクール荒らし』と言われ始めた頃、祖父からの呼び出しがかかった。 「もう、2年好きなことをしただろう。うちの理事に音楽家はいらん。そろそろ、教員免許の方に集中しなさい。」 無試験で萩ノ宮の大学への編入を命令された。 音楽教師になるつもりがあったわけじゃない。ただ、祖父からと大学からの条件を満たしてしまった今、それに従うのは当然のことだった。 けれど、ただで引き下がる気はなかったから、大学側にも相談はした。 大学で受けるべき試験を全て受けて、論文もいくつも出し、単位を全て取得して、高校、大学での教員免許まで取得した上で、音大は卒業することが出来た。小さいコンクール等は日本での記録しか無いため、アメリカ人だが、S音大に入学した生徒として、日本では異例の飛び級だが、大学側も卒業生に受賞者が欲しかったので、利害が一致した。 それが終えてから、萩ノ宮へ編入をした。その際、祖父に「萩ノ宮」を名乗ることを禁じられた。祖母の旧姓である「植田」の姓を名乗れ、とのことだった。 学生証は当然「植田 昂輝」と書かれていた。萩ノ宮よりこっちの方がしっくりくるような気がしたが、萩ノ宮を名乗るな、と言われたことには、多少のショックは受けた。 編入した際、興味のあることは多々あったが、教育学部で歴史を専攻した。司法や経済学を学んだところで、萩ノ宮の教員免許には関係ないからだ。 まだ完全に日本語をマスターしているわけではないので、完璧な日本語を学ぶ上で、日本のことを知らないと何も教えられない、そう思ったからだった。 アメリカでは、物理学の免許は取得していた。本来であれば、学士号のみだが、修士号、博士号、までを論文や、研究で結果をだして、取得していたのもあり、物理学と数学と英語は、日本での中高の教員免許を先に取得をした。アメリカでの実績から教育実習と試験で取得することが出来た。 そして、音大でも、教員免許を取得し、ピアニストとしての登録も済ませた。 取れるだけの資格を取ろう、と思った。 萩ノ宮を名乗らせてもらえないところに意地もついてきたのかもしれない。 運良く、記憶力には自信があった。 2年間を音大で過ごし、萩ノ宮へは、3年生からの編入という形になった。 ある程度の勉強はしてきた。それでも問題はないだろう、という周りの判断が一番大きかったが、自分の判断も大きく関わっていたのも確かだったかもしれない。 成人を迎える頃、一人称は「僕」ではなく、「オレ」となっていた。 そして、あの後輩たちと出会うのだった。

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