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萩ノ宮 7
最初から連打が続く曲を、譜面も見ずに、見事に弾きこなしていたからだ。楽譜を見ながら弾いたところで指が正確に動くかわからない。暗譜してることもびっくりだった。
腹立たしいことに、感情を込めるようにその表情はその音色に合わせて変わっていく。揺れる髪の隙間からそれが見える。普段のニヤけたそれが今は無い。
音階もさることながら、その指の動きの速さ、鍵盤を叩く長い指も天性のものだろう。
ピアニストになるために指と指の間の水掻きと言われてる部分を切除して指の開きを大きくする人もいるけれど、細く綺麗な長い指に不自然なところはなく、流れるように鍵盤の上を滑っていく。ペタルを踏むタイミングもバッチリで綺麗に音が響いている。
しかも、中途半端なレベルではない。
弾くというよりは指が鍵盤の上を、滑るような動きなのに、時に強く、弱く、その音色を奏でていた。
植田のピアノに、ごっそりと気持ちを持っていかれてしまった。指慣らしでこのレベルって何?!バカにするどころか、自分の周りにもこれだけ弾きこなせる人間はいない。
プロが欲しがる音色がそこにはあった。2小節聴けばレベルがわかると言うけど、このテンポでの2小節なんてあっという間だ。『指慣らし』などというレベルではない。
5分くらいの時間だったけれど、これがステージなら、スタンディングオーべーションでの拍手喝采だろう。
「鈍ってなくてなによりだわ。本当に、もったいないわ。今からでもプロに方向転換したらいいのに。うちの団長、諦めてないわよ?」
「バカ言え。オレには選択権なんてないことは……」
何かを言いかけた時に、廊下側のドアが開き、佐々木を含んだ数人の教師が現れた。
防音がしっかりとしているこの音楽室では、先ほどの演奏は、教師たちの耳には届いていない。
教師たちは、彼ら用にセッティングされた席へ順番に座る。その中には音楽教師の姿もあった。しがない英語教師の耳だけでは実力を見るのに役不足だと思われたのかもしれない。
すると、植田は譜面を広げ、葉香とアイコンタクトをとり、鍵盤へと細く長い指を伸ばした。
アイネ・クライネ・ナハトムジークの第一楽章の演奏が二人だけで始まる。
演奏会を最前列で見ている気分だ。逆に客席の先生たちの方がよっぽど素人だろう。
音楽教師がどう思うかは謎だが、今は2人で演奏している。2人ともプロのレベルだと気づくのかが謎だった。ピアノはあくまでも伴奏なので、音大を出てるなら弾けるであろう曲だけれどその細かな音に気付いてるかも謎だ。
主役はヴァイオリンになるから目立ちにくいが……
葉香のヴァイオリンにも、楽器だけの差ではなく、実力でも、恵理子は自分がこのふたりのどちらにも劣っていることを再認識する。
それに加えて、植田のピアノが軽やかに、繊細に、流れるように奏でられる。その表情は楽しそうだ。この人はピアノを弾くことが好きな人なのだ、とわかるほどに。
自然と手が、動き出し、葉香の旋律を真似て指が動く。
――このピアノ……弾きやすい!!
完敗だった。けれど、この音が欲しい……そう思わせるには十分なほどの実力を伴っていた。
自分の実力以上の力を引き出してくれそうなピアノの音に魅了される。葉香が欲しがっていた音がそこにあり、何故、葉香がセッションに拘っていたのかが理解出来る。
知らず、ゴクリと喉がなる。植田のことは嫌いだ。けれど、この人の実力は本物だ。
第一楽章が終わろうとしたとき、植田が恵理子にアイコンタクトを送ってきた。
恵理子はヴァイオリンを構える。
二拍をおいた後に、ジャズのような軽く色気のある曲から、軽快な伴奏が始まる。
自分の番だ。
現役ヴァイオリニスト、葉加瀬太郎の作曲のドキュメンタリー番組の曲として有名な曲。
この曲を作曲したヴァイオリ二ストも天才だ。彼のような、歌うような音質は今の恵理子には出せない。
けれど、自分の今の精一杯を頑張りたい。
このピアノの音に、自分を認めさせたい気持ちが強い。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
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