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萩ノ宮 8

演奏が始まると、予想以上に弾きやすい。 だからといって、なんのリハもなしに演奏するということに、緊張しないわけじゃない。少し走ってしまうと、それに合わせてピアノの速度があがる。徐々に速度を落とし、正しいテンポへと導いてくれるのだ。 ――この人……半端じゃない。 葉香のいる楽団の楽団長がスカウトしたいというのも、冗談などではなく、本気なのだろう。 けれど、『植田昂輝』などというピアニストは存在してないはずで、記憶にもない。 葉香は『クリス』と呼んでいたが、知っている範囲で『クリス』という名のつくピアニストの中には、この姿は存在してない。だから直ぐにきれいさっぱりと記憶からそんなことは消え去っていった。そんな余裕を残してない。 葉香の足元にも及ばない実力が、露呈されていく焦りが、恵理子の中に積もっていくばかりだった。 演奏後、植田が軽く、短く、挨拶をした後、パッヘルベルのカノンの演奏を促される。 ゆったりとピアノの旋律が流れ出す。 息を深く吸って、弓を構える。 その旋律に、吸った息のように、深い音を出したいのに、指に伝わる振動も、引いた弓にもそこには程遠い音しか奏でていない。 出だしから失敗をしてしまった。 葉香は、焦らず徐々にペースを戻せばいい、という目線をこちらに向けている。 ハモるように乗せられる葉香の旋律に促され、音を重ねていく。この先のサビまでは、自分リードで進んでいく。 2人の息はぴったりと合っていて、プロにアマチュアの恵理子の音は、そこに乗せれらているだけだと、嫌でも痛感する。実力の差がありすぎる。葉香を呼んだのも、その実力の差を見せつけるためだろう。だとしたら底意地が悪い。 もしくは、それだけの腕を持っている、と過信されたか……確かに堂々と一芸入試を宣言はした。この教師も音大に通っていた経験上、それなりに耳が肥えているはずだ。 これは、テストを白紙で出した恵理子へのお仕置きなのだと、思い知らされる。 ――こんなはずじゃなかった… そう思っても、後の祭りだ。 まさかのプロと、プロにもっとも近いピアニストと、演奏するハメになるとは… 今後、英語の授業を怠らない、という反省は十分にできた。でも苦手なものは苦手だ。そして、この英語教師が何者なのか?ほんのわずかだけの興味があった。 けれど、苦手であることにはかわりなかったし、はっきり言えば嫌いなタイプだ。 教師陣の拍手が、あたりを包む。 演奏が終わった時には、少ないギャラリーから拍手が送られたけれど、恵理子はちっとも嬉しくない。その賞賛は、自分以外の二人に向けられたものだと思っていたからだ。 そして、たぶん、そこに間違いはないはずだった。

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