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萩ノ宮 10

昂輝は眸を瞠る。真嶋が、昂輝自身に興味を示したのは初めてではないだろうか? 佐々木を含めた教師陣は、既に退席をしていたが、真嶋のすぐ後ろには、祖父と父がいる。それだけでも遣りづらいのに、真嶋は嫌な質問をしてきた。 だから、同じように小声で返す。 「……それが赦される環境が、今のオレにはないからだよ。それに、ここで、音楽は求められていない。それこそ、わがままの延長だと思ってくれていい。 あっちでの研究も共同研究だったとはいえ、発表をしたのは彼女だし、わかってることとはいえ横取りするような真似をしたくはないかな。実際はどうあれこのタイミングで戻っても横取りにしか思われないよ。だから戻らない。オレは彼女のしてきた研究しか出来ないから…… それにピアノも趣味だ。 格好については日本人の容姿になりきる方が楽だし、教師ならそれが自然だろ?あのままじゃ学校では目立つ。この格好はオレがここで生きていくためのものだから気にしなくていい。それがあんたたちの望みだろ?あと日焼け対策…」 そう言って、少し俯いた。 「私はありのままの君が、一番綺麗だと思うよ。音大時代が一番生き生きしてたように見えたよ?」 その言葉に胸が痛む。もっと音大で学びたいこともあった。出来るならピアノの道に進みたかったが、それが叶わないことくらい目の前の男は知っているはずなのに、皮肉なことを言う。苦笑で返すことしか出来ない。 亡くなった母よりの髪や、やや特殊な眸の色、目鼻立ちもどちらの国のものでもない中途半端なものでしかない。 萩ノ宮の後継者第一候補である、長男の萩ノ宮昂一の唯一の息子……子供という立場。 本来ならば、見も知らない女との間に生まれた孫を、孫だと受け入れたくはない、と言い放った祖父。しかも見た目はれっきとした『外人』だ。色素だって本来なら濃い方を遺伝するから、日本人に近い色をしてなければおかしいこ とも理解しているが、色素異常だから仕方ない 自分が生きていく上で必要なものを、自分で判断し、それをしていかなければ、生き辛い現実。そうやって選んできたつもりだった。 それを訴えかけるチャンスかもしれない…… けれど、たぶん、祖父も父もそんな音楽の表現で自分の心など理解してはくれないだろう。 だからこそ、自分の一番弾きこんだ曲を奏でることが良いだろう、とピアノに向かう。 一呼吸を整え、昂輝はピアノに指を乗せて軽やかに弾き始めた。 ショパン、バラード第1番ト短調作品23 ゆったりとした音から始まるその曲は、鍵盤の上を軽く滑っていくが途中からその曲調は激しくなり手は正確に時に強く、時に優しくそのピアノの音色を奏でる。テンポがその都度変わるこの曲は、強弱の激しい曲で感情がとてもよく出る曲だ。細かく鍵盤を叩く手は全身を揺らす。その速さとは対照的に余裕すら感じるピアノを弾く姿は堂々としていた。 繊細な指の動きで、観る人を魅了する姿勢の正しい優雅な動きで、感情豊かにその旋律を奏でる。 葉香も恵理子も引き込まれるように、ピアノを見入っていた。葉香はコンクールで1位を取った曲との認識、恵理子はコンクールで入賞を狙えるんじゃないかという認識で。 「コンクールで弾いた曲だね。素晴らしかったよ。見れて嬉しかった。」 真嶋や、葉香、恵理子は拍手でその曲を称えてくれたが、祖父は眉間に皺を寄せ、父は相変わらずの無表情だった。 あの二人には、昂輝のピアノなど、レストランで流れてるBGMくらいにしか、聴こえていないのだろう。 昂輝は寂しそうに微笑み、真嶋を見たあと、席を立ち、真嶋の真横に立ち、耳元で 「I may betray you sometime. Still will you permit it?」 (いつか、あなたを裏切るかもしれない。それでも許してくれるだろうか?) そう呟いた。

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