60 / 134

chased 4

以前は薄暗い路地裏にあった、安く、ボロボロだったアパートメントの跡地は、ショッピングセンターや、ホテルといった観光客向けのリゾートへ移り変わっていた。 学生向けの安いアパートが何棟もたっていたはずなのに、全てのアパートメントがなくなっていて、自分がいたことの形跡すら全て無くなっていた。あれだけの大事故物件案件を作り出したのは母なのだから仕方ないことだとしても。 「ありがとう。助かったよ。お礼に一緒に食事でも……どうかな?」 握手をしながら、お礼がしたい、と言い出した。今日の宿くらいは、早々に見つけたかった。ここで立ち止まるわけにはいかない。 「お礼を言われるようなことでもありませんし、オレも今日の宿を探さなきゃならないので、これで……」 早々に立ち去ろうとするクリスを、尚も、強く握られた握手の手を離すことなく、引き止める。にっこりと微笑むその翠の眸の奥から冷たい何かを感じた気がしてゾクリと背筋が冷たくなる。その張りつけたような表情のまま 「僕も一人なんだよ。独りぼっちでの食事もつまらないと思わない?だから、一緒に食べてくれないかな? それに、僕の部屋はベッドが2つあるんだ。宿がないのなら、今日はそこに泊まればいい。」 少し困った顔をするものの、渋々、わかりました、と返答した。ショルダーの小さな肩掛けのカバンには飛び出してきたままの貴重品が入っているが、思いつきで来てしまったから、本当に荷物がこれしかない。 ――自分はこんなに押しに弱かっただろうか? 互いに、ドレスコードのある店に入れる服装ではなかったので、ファミレス風のステーキハウスに落ち着くことになった。1ポンドの肉がドーンと出てくるような店だった。 彼の立ち振る舞いを見る限り、テーブルマナーを身につけているであろう、とは思ったけれど、クリスは、それに見合う服は持ち合わせていない。親子連れの客が多い中でドレスコードのある店自体が少ないのだが…… 育ちの悪い自分の方こそ、まともなテーブルマナーなど、身についてはいない。そういえば昔…… 『これくらいは、出来なきゃダメよ?』 ティティーに連れていかれたレストランで、彼女に数回レクチャーをしてもらったくらいの知識で、もう、十年近く前のことだ。 目の前でジュー、ジュー、と音を立てた鉄板の上に、肉が乗せられ、食欲をそそる匂いが鼻腔に広がると、一気に空腹感が増してくる。 朝、ダニーの店で飲み物を飲んだきり、食事をしてなかったのがいけなかったのだろう。だから思考能力も落ちていたんだ……と改めて思った。 ステーキ肉を豪快に齧り、お腹が満たされていくと、曇っていた思考がクリアになっていく。そこで、やっと目の前の人物の名前が、はっきりと頭に浮かぶ。 「あっ……!!アルノルド・シュレイカー……?」 声こそ大きくなかったが、クリスはアルノルドに気付いた。彼に驚きはなく、アルノルドは微笑んでいた。 「キミに名前を知ってもらえてるなんて、光栄だなぁ。 改めまして。アルノルド・シュレイカーだ。」 「クリス・シュミットです。」 握手を交わしながら、自己紹介をした。 彼が指揮者だとわかったからか、彼から普通に話すであろう音楽の話が出てきて、互いの音楽感について話し出すと止まらなくなり、クリスはピアノ視点で、アルノルドはコンダクターらしく、オーケストラ全体を見回して、の客観的な意見を出し、クリスの興味をひいた。 気付けばかなり深い話をしていることに気が付いたが、素性を全て晒したわけではないし、音大卒くらいならこれくらいの知識はあるだろう程度に話を流していた。 「オレは、今は日本で暮らしているんです。残念ながら、日本での公演は、知ってはいたのですが、観に行くことが出来なかったんですよ。 でも生徒から、感想は聞きました。素晴らしいステージだったと。」 「それを言うなら僕はね、指揮コンの参考に、って当時ヨーロッパ中のコンクールを見て回っていたんだが、ポーランドでのキミのピアノコンクールの会場の客席にいたんだ。とても舞台映えする姿は圧巻だったよ。 そのキミが、今はピアノを続けていないなんて、本当に残念に思ってる。」 突如、振られた言葉に、クリスは言葉を失う。自己紹介はしたけれど、コンクールで名乗っていた名ではない。ポーランドという1度しか行っていないコンクールのことを指していることに違和感を感じる。 この男は、最初から自分のことを知っていたことになる。 いや、音楽について話し出した時から気づくべきだった。 ピアノを弾いて欲しい、と願われるのは、悪い気はしないけれど、コンクールのことといい、本格的にピアノを弾いていないことを知ってることといい、プライベートを知られすぎている。少し警戒をしながら、それを悟られないように、表情を崩さず言葉を選んだ。 「ありがとうございます。今でも、たまにピアノは個人的には、弾いているんです。 音楽は人の心を豊かにしてくれますから、好きですよ。だけど、オレのピアノは……届いて欲しい人には届かないんです。万人に好かれたいとは思いません。届いて欲しい人に届かなければ、なんの意味もないんですから……」 父や祖父の前でピアノを奏でた時、二人とも無反応だった。逆に祖父は嫌悪感すら抱いているように見えた。クリスが……昂輝として、生きて行くのにピアノの善し悪しは必要ないからだろう。 「そんなことはないと僕は思うよ?少なくとも僕はキミがピアノを弾く姿を見たいと思うし、演奏して欲しいと願ってる。ところでクリス。僕と賭けをしてみないかい?」 アルノルドは、いたずらっぽい笑みを浮かべ、店の奥を指さした。

ともだちにシェアしよう!