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Inverse view 11

「……クリス……クリストハルト……僕の愛しい人……」 そして、この低く甘い声と、甘い言葉。そしてあの妙な曲のタイトルは自分宛だったのか、と呆れてしまう。曲は綺麗なのに、なんでタイトルが『アレ』なのか、と。 所謂(いわゆる)、残念なイケメンと言えるだろう。 軽く抱き寄せられただけなのに、痛む躰からは、悲鳴が上がる。全身が筋肉痛になっているような状態だ。 「痛っ!!」 ふわっと身体に触れていた手が、頬を包む。 「初めてだったのに、無理をさせてしまったね。もっと優しく抱いてあげるつもりだったんだけど、僕も途中から、君が素敵すぎて夢中になっちゃったよ。それに僕も媚薬の影響を受けてしまったからね。お詫びといってはなんだけど、しばらくは僕もオフをもらう予定なんだ。手とり足とり扱き使ってくれて構わないよ。」 微笑みながら悪びれない、その様子にも腹が立つ。足腰立たない状態なのだから逃げようもない。媚薬の影響は自業自得だろ、と思う。 「……なんで、オレなんですか?あんたなら、言い寄るも多いでしょ……?」 不機嫌を隠しもせずに、少し前によぎった疑問をストレートにぶつける。不機嫌な部分はアルノルドにはどうでもいいようだ。 エメラルドの眸はそのまま目を細めてニヤリと嗤う。 「残念だったね。キミがもし女だったら、僕はキミに執着することもなかったと思うよ。僕は、男にしか興味が持てない性質(たち)でね。女には興味を持ったことも寝たことも一度もない。 キミと同じように他人には然程(さほど)、興味もなければ、好きになることも、あまりなかったんだ…… けれど、あの日コンクールのステージで、ピアノを弾いているキミに、生まれて初めて一目惚れをして、絶対に手に入れたい……そう思ってからは、キミを追うことしか考えられなくなった。どうしたらキミの眸に僕を映してくれるか、僕に微笑んでくれるか、キミに相応しい男になる為に日々を過ごしてきた。」 とんでもない相手に、見初められたことだけは、確かなようだった。 「僕は、もう、キミを手放す気はない。賭けは僕が勝ったんだ。僕のステージで僕の為にピアノを弾く、そういう約束だったよね?忘れたとは言わせないよ?」 はっきりと言い切る言葉に、悪寒が走る。 「それは一度だけだと思ったから、返事をしたまでで……」 「やっとキミに触れることが出来たんだ……手放すなんてそんなもったいないことが出来るわけがないだろう? この柔らかい髪も、想像より遥かに柔らかい、その神秘的なパープル・アイもこんな間近で見れて、僕の手の届くところにあるなんて、今、僕は最高の幸せを感じているよ。その眸に僕が映ってる……それをどれだけ焦がれたか…… それに、さっきまでのキミは本当に素敵だった。思い出すだけで勃ってしまいそうだよ。 まだ、処女を失ったばかりだからね。今日は我慢するよ」 ――あれだけやってまだ足りないのかよ…… 怖かった。ゾッとするような恐怖だ。どんなことをしても手に入れたいという欲求がこれほどまでに怖いことだとは思わなかった。そこまで誰かを求めたことも求められたことなどない。もっと平穏な愛情ならあるけれど…… 「……オレに関わることで、寿命が縮まるとしても?」 そう投げかけると、アルノルドはその答えを用意していたのかのように微笑み 「、僕は、。例え、一秒であっても、キミより、永く生きてみせる。」 ――ただのピロートークだ。 そう思っていても、その言葉に見開いてしまった眸に涙が浮かび、眦を伝い流れ落ちる。 それが、本当なら、どんなにいいだろう。 失うだけの愛などいらない。 どうしてこの男は、今、自分が一番欲しい言葉をくれるのだろう? リサーチ済みだから?けれど、残された人生なんて誰にもわからない。 けれど、『絶対に一秒でも長く生きてみせる』その言葉の重みは、クリスを揺さぶるには充分な威力を持っている。 その言葉だけで、自分は簡単に堕ちてしまった。 その言葉を信じたい……アルノルドの頬に両手を添えた。見開いた眸からはとめどなく涙が溢れる。アルノルドの口唇が近付いてきたから眸を閉じると、温かい唇が眦に触れ、涙を吸い上げ、クリスの唇に、肉厚な唇が、何度も軽く触れてから、深く、舌を絡ませ、互いの唾液を貪った。 けれど、迷いが消えたわけではない。目の前のこの男は数時間前に、クリスの頭に拳銃をつきつけて、抱かれるか、死ぬかを選べ、と言った男だ。そう。まだ、命の危険は過ぎ去ったわけではないのだ。 そして、今の自分を捨てろ、と言ったのだ。

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