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Inverse view 21
「ここなら、気を使わないだろう?」
アメリカでの最後の夜、連れてこられたのは、この街に再度、足を踏み入れた時に、最初に立ち寄った店。
ダニーの店だ。最初と最後の店が同じだということに、苦笑いしか出来ない。全てアルノルドは承知の上での行動だろう。
3週間と数日の軟禁状態だったが、条件付きでアルノルドとの同棲を許諾したことにより、善は急げ、で、急遽、帰国することになったのだった。ヴァルターに言わせれば仕事がこれ以上押せない、という部分も大きいのだそうだ。
店に入るなり、いらっしゃいませ、と声をあげて振り返った途端、愛想のいいはずの店主である、ダニーの表情が一瞬、強ばった。瞬時に商売人らしく笑みを浮かべた。
クリスはともかく、アルノルドの方になにか心当たりがあるのだろう。
「初めまして。君がクリスの先輩のMr.ダニー・マクウェルだね?僕はアルノルド・シュレイカーだ。よろしく。」
アルノルドが微笑みながら手を差し出すと、ダニーも貼り付けた笑顔で手を握り返す。けれど、彼の纏う雰囲気は警戒心をむき出しにしたままだ。アルノルドがそれに気付かない訳がない。
「……初めまして……ダニー……です。……何故、貴方がここに?それに、何故、クリスと一緒に?」
「彼とはこの街で迷っていた時に親切にしていただいて、意気投合したので仲良くさせていただいてます。互いにアメリカを離れる前に、ご挨拶も兼ねて寄らせていただいたんですよ。貴方にはお世話になったと聞いております。
それに、Mr.マクウェル、僕のことを色々とご存知のようですね。嬉しいですよ。
クリスは音楽に携わる身として、お互いに存在は知っていたのですが、会うのは初めてだったんですよ。
彼の才能をこのまま埋もれされるのも、もったいないと思いまして、今後は彼をマネージメントしながら、有名にさせますので、応援をお願いします」
「ダニーで結構です。Mr.シュレイカー。クリスが音楽を?私が知っているクリスはサイエンティストなのですが……申し訳ありません。
クリスが音楽を、というのは……?」
「では、ダニーと呼ばせていただきます。僕のこともアルノルドで結構です。彼は国際コンクールを何度も優勝しているピアニストですよ。音楽業界で彼の名前を知らない人はいないくらいです。お母様を亡くされてから、日本で始めたらしいですが、僕は彼のピアノが大好きなんですよ」
優しく微笑むアルノルドと、作り笑いのままのダニーは握手を交わした。
ダニーは、警戒を解かないまま、握手を交わしていた。彼らしくない態度だった。
テーブル席に案内されてから、遠慮がちに、ダニーはアルノルドへ、申し出た。
「失礼を承知でお願いがあります。ちょっと、クリスを借りて良いですか?」
「えぇ。どうぞ。」
反対されたかったわけではないが、予想外に、柔らかい笑みで、ダニーに応えたアルノルドの反応が、逆に怖いとは、どういうことだろう。
カウンター脇まで連れていかれて、ダニーが尋ねて来た言葉に唖然とした。
「おまえ、この街にマフィアが来てるって知らせたのに、なんで、そのマフィアと一緒にいるんだよ?」
小声だが、その驚きは隠すことなく、捲し立てるような勢いだ。けれど……
「マフィア?バカな……彼は、世界的に活動している指揮者 だけど?」
鼻で笑うように告げると、ダニーは真面目な顔で、
「表の顔は、な。奴の家は結構デカい、イタリア系マフィアの幹部の家系だ。少なくとも父親は、そのマフィアのドンだ。なるべくなら、避けて通りたい人種であることには、違いないはずだ。」
どういう経緯で、一緒にいるんだか知らないが、徐々に距離をとって、自然消滅させるのが良いだろう。
そう言う、ダニーの忠告は有難いが、今更手遅れだ。
彼から逃れることなど、考えられるわけがない。
『ストックホルム・シンドローム』
身も心も、完全に彼の手の中に堕ちている。
これから、少しの間、離れることを考えるだけで、切なくなるというのに。
クリス自身、ダニーの店を教えたこともなければ、ダニーの存在を、伝えたことはない。ましてや、フルネームを伝えたことすらないのだ。
たぶん、アルノルドは、ダニーの言葉一つ取っても、この状況ですら、想定済みなのだろう。だから、このタイミングで、ここへ連れてきたのだ。
テーブル席に座りながらも、クリスが目線を送ると、メニューに向けていた眸がこちらに向く。
ニコやかに、そして、カウンター越しに、こちらを見ている表情には、余裕すら感じる。
今更、アルノルドが何者であるかなどは、どうでもいいことだったが、ダニーや、その家族に何かがあるのは、正直、困ることなので、席に戻り、アルノルドを説得することが先決なのだ、とクリスは思った。
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