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Inverse view 23

アルノルドの邸宅の話を聞いて、離れにあるピアノを運びたいと頼んだのだ。 オーストリアで買う方が、輸送費のコストも削減出来るし、その分の費用で、最高級のグランドピアノを、と言われたが、あのピアノを、祖父からの初めてのプレゼントを、出来れば手元に置いておきたかった。 わがままだとはわかってはいたけれど、彼と暮らすための、それが条件だった。 まず、それには祖父を説得出来なければ、ならないのだが…… 萩ノ宮の血族に、音楽に携わる人間はいない。萩ノ宮には音楽科はないからだ。その上、自分たちの地位に胡坐をかいているような連中に、自分が選択した教科以外に興味を示す者もいないのだ。 ほぼ、全教科を教えられる『昂輝』のような人物は存在しない。祖父が一代で築き上げた学園は、最終的には、子供たちに乗っ取られ、そして、従兄弟たちもそういった先が保障された生活の上に胡坐をかいて最終的には、理事について、甘い汁だけを吸って生きていくのだろう。 まだ、祖父母はそれほどの高齢ではないが、互いに育ちはいい。だからこそ、サロンと呼ばれていた旧華族のパーティーのようなところへ、若い頃は出入していたことは間違いない。 祖父にとっても『昂輝』が離れでピアノを弾いていなければ、ピアノは不要な代物だろう。 「……まぁ、誰も弾かないものを、無駄に置いておくことはないだろ。」 それが、クリスの正直な言葉だった。 ピアノを無駄に維持するには、定期的な調律を含め、費用がかかる。ただでさえ、場所を取る上にに、誰にも弾いてもらえないのは、やはり可哀想だ。 それでも、たまには、祖母にピアノを聴かせてあげたい気持ちがないわけでもない。 「僕も、一緒に日本に行きたいのはやまやまなんだけど、一度、戻って音合わせをしなければならないんだ。半月後には、そのゲストの楽団のステージがあるから、それまでに音を合わせなきゃならない。 それが終わったら、1日はいられないけど、日本に行く。 行ってお爺さんを説得して、納得してもらわないとね。 『お孫さんを僕にください』かな? 日本ではそう言うんだったね。僕は本気でプロポーズしたんだから、それに応えてくれたことが、ものすごく嬉しいんだ。早く、キミを手元に連れていきたいくらいだよ。 本音を言わせてもらえるなら、強引にでも連れて行きたいけれど、僕はキミの身内と争いたいわけではないからね。」 ――それを言うなら『お嬢さんを僕にください』が正解だろ…… 完全に女性のような扱いになっている、アルノルドの身内への挨拶はどうするんだ?と聞くと、軽くはぐらかされた。 『母は亡くなってる。父も忙しい人だし、イタリア人だから、アポを取ってからでないと会えない。それに、異母兄弟が多いから、おいおい……ね。別々に暮らしているが、うちは大家族なんだよ。』 アルノルドはそう言うが、クリスが日本に帰っても、ことは簡単には進まないだろう。夏休み中にやらなければならない仕事を放棄して、アメリカに想像以上の長期滞在をし、日本に帰る予定だった日時はとうに過ぎ去っている。 夏休み中に済ませなければならなかった仕事は山積みになっているはずだ。 アルノルドに捕まりさえしなければ、これほど長く滞在する予定ではなかったのだ。しかも、携帯電話も日本に置きっ放しだということを考えても、真嶋にも説教を食らうことは間違いなかった。 それでも、自分は進学クラスをメインとした英語教師だ。今の仕事のことや、荷物のことなどを考えても、全てを速攻で切り捨てることも、出来ることではないし、夏休みだから、と学生気分で、仕事を放り出してきたツケは、払わなくてはならないだろう。 帰国早々に、祖父や父と争うことになるだろうが、それは覚悟の上だ。 色々な、言い訳や、切り返しを長いフライトの間にシュミレートしよう、と、考えるだけで、今から胃が痛くなりそうな気分だった。

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