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preparations 9
逃げたツケは大きく、夏休み中だというのに、2学期に備えての仕事に忙殺される日々が続いていく。結局のところアルノルドからの電話は欲求不満が増しただけだった。
日本の蒸し暑い真夏の暑さにはウィッグの中も辛いことになっている。ウィッグを外して汗を拭きたいところだが、その間に誰かが職員室に入ってきても厄介だ。慣れてきたとはいえ、10代後半からの日本での生活はそれまでの気候とは一転して寒冷地仕様の体にはかなりきつい。
昨年の夏は部活にも関わっていなかったし、彼女の件もあったから最低限の出勤と移動もほぼない状態で冷えた職員室での資料作りや、事務処理をするくらいで済んでいた。
職員室はクーラーで冷やされていて、それなりに涼しいのだが、資料室や軽音部の部室やら行ったりきたりをしてると、やはり、資料室や廊下までは冷やされていないし、軽音部の部室である第2音楽室もそれほどは冷えていない。
日陰の席なのをいいことに、野暮ったい服はとりあえず脱いで、Tシャツとチノパン姿になり、眼鏡もとりあえず外して、団扇でパタパタと扇いでいた。ほどよく冷えた冷気は少しずつではあるが、昂輝の身体を冷やしつつあった。
ガラガラと職員室のドアの開く音を立がしたので、横目で振り返ってその相手を確認する。昂輝の席からでは、出入り口に背を向けて座っている状態だったからだ。
職員室に入ってきたのは従兄弟であり、前任の軽音部の顧問である浅葱正禎(あさぎ まさよし)だった。
父の姉の長男だ。立場が強い彼が夏休み中に仕事に来ること自体が異様ではあったものの、ここで素を晒すわけにもいかず、一応、彼との初対面もこの格好だったので、ウィッグを取るわけにはいかない。
こういうとき、染めた方が楽だったか?とも思うが、逆プリンになるのもイヤだった。しかし、前髪がこれほど邪魔だと思うのは、初めてだ。
彼も昂輝を一瞥してから、自分の席に座る。挨拶一つないのも、昂輝を従兄弟だと認めず、見下しているからだろう。正禎の席は昂輝の席に背を向ける形の席だったので後ろから声をかける。
「お疲れ様です。浅葱先生」
昂輝の方から声をかけてみるものの、振り返りもせず、「あぁ」の一言で終わらせてしまう。
それが不平や不満だというわけではないが、挨拶くらいはまともに出来ないのは、社会人としてどうかと思う。どうせ振り返らないなら、外してしまおうか、とも思ったが、見られたら、何を言われるかわからないというのもあり、油断は出来ない。少し前髪をかき上げ汗を拭いていると、
「あんたさ、そんなに綺麗な顔してんのに、なんで顔を隠してんの?すげぇモテそうな顔してんじゃん」
目を瞑って汗を拭いていたので気付かなかった。あまりの声の近さにドキッとして思わず目を見開いて、そのまま正禎の方を見つめてしまった。それほど大きく髪をかき上げていたわけではなかったので、ウィッグには気付かれてなかったが、顔ははっきりと見られてしまった。
「確か、昴一伯父さんとのハーフだったよな。あんたの母親ってどこの国の人?」
「…………ドイツ系アメリカ人」
「ふぅん、そっちの色の方が強いみたいだな。伯父さんにはあまり似てないな。目と髪の色だけこっち系?それとも母親も黒髪?」
「いや、母は金髪碧眼だったよ…………」
この質問攻めはなんだろう?下手なことは言えない事情も察して欲しいと思いつつも、聞かれたことのみに答えていく。
「で?なんで顔を隠してるわけ?モテたくない理由でもあんの?服もそう。もっと肉ついてんのかと思ってたけど、すげぇ細いのな。なんでダボついた服きてんの?」
なんで、そんなことを答えなければならないのかわからないまま、どう答えるか迷う。
「……目立ちたくない……あとは日除け。体質で日焼けが出来ないんだ。それだけだよ」
「ふぅん。だから年中長袖か。それも大変だな。アメリカから来たっていうからタトゥーでも入ってるのかと思ってたけど違うんだな」
なんの関心を持たれているんだろう?教員生活も2年目にして聞かれることなのか、首を傾げるが、こちらからは余計なことは聞かない。面倒事もごめんだ。
「……浅葱先生、軽音部の顧問、来年度からまた、名前だけでもいいので貸してもらえませんか?オレ、今期で『萩ノ宮』を辞めることになったから、続けることが出来ないのでお願いしたいんですけど」
それには正禎も度肝を抜かれたようで、一度、背を向けた身体をまた正面に戻し
「はぁ〜〜?!辞める?!よく爺さんが許したな。辞めてどうするんだよ」
「……まぁ、とりあえずは、日本を離れるよ。元々理事長の椅子には興味ないし、やりたいことを見つけちゃったから、それをするために留学する。
たまにお祖母様とお茶する為に帰ってくるけど、教職に戻るつもりはないかな。
諸事情で理事に名前を連ねることになるけど、それが交換条件だから、そこは気にしないでくれるとありがたいかな」
「……それは決定したことなのか?」
意味深な質問を投げかけられて、首を傾げる。
「あぁ…………まぁ。」
殴られてまで得た自由だし?
「……そうか」
「???」
謎の会話の後、正禎が口を開くことはなかった。
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