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preparations 21

クリスは気だるい躰で暖かさを求めて、隣のアルノルドに擦り寄った。 意図的ではなかったが、その暖かさは、安心を与えてくれる。そして、その暖かさから抱き寄せられるように胸の中にすっぽり納まってしまうと、また惰眠を貪る。 ――あったかい…… そのぬくもりを感じながら、アルノルドが現れるまでの田山姉妹とのやりとりを夢で見ていた。 「先生、この譜面、弾けますか?」 田山姉、歩が持ち出してきた譜面は、初めて見るものだった。譜面の主の名を見ると、 『Arnold・Schreiker』アルノルド・シュレイカー その名前にドキッと胸が痛む。まさか、こんなところでアルノルドの名前を見ることになるとは思わなかった。ざわつく気持ちを抑えながら、一通り目を通すと、難易度の高さが伺える。コレを譜面どおりに弾く、となると、それなりの技術が必要、ということだ。 確かに、一音大生が、これを完璧に弾きこなすことは不可能だろう。思わず、クスっと笑ってしまう。これが、アルノルドの曲として、どれくらいの難易度のものなのか想像することは出来ないが、この曲のレベルが、最低ラインだとしたら、とてつもない約束をしたことになる。 「……なるほどねぇ……アルノルドの性格がよく出てる楽譜だね。この楽譜がどのレベルの譜面なのかわからないけど、とりあえず、この曲は強弱が激しい曲だから、同じペースで弾いていたら、うまくは弾けないだろうね」 ニッコリ微笑みながら伝えるが、姉、歩は言葉を聞き逃してくれなかった。 「先生はアルノルド・シュレイカーと面識があるんですか?『アルノルド』の性格が出てる、と仰りましたが、コンサートに足を運んでいたとしても、性格までわかるものでしょうか?」 「コンサートには行ったことはないよ。だけど、本人とは面識はある。夏に里帰りしたんだ。母や恩師が墓に入ってるっていうのにその墓参りにすら行けてなかったからね。 その街でね。『偶然』知り合ったんだ。道案内のついでにご飯を一緒に食べた。その時に互いの音楽論について語り合ったりした……かな」 何気なく言った一言に、そこまで食いつかれるとは思っても見なかった。 「……なるほど……」 田山・姉は、鍵盤を見つめながら、たった一言だけ、そう言って、顎に手を置きながら、その演奏を見つめていた。 「さすがプロですね。休業期間がコレほどまでに長いというのに、指の動きが何でそんなにしなやかなんですか?!天才はやっぱり天才ってことなんですかね……」 意味深な田山・姉の言葉に苦笑するが、まったく弾いてないわけではない。祖母のところでは練習を含めて弾いている。ただ、それでも、ちゃんとピアノを弾いていた頃と比らべものにならないほど、質は落ちているのは否めない。 「今はプロじゃないよ。やっぱり間が空いてしまうと、これほどまでに弾けなくなってる、と思うと、ブランクって怖いなぁ、って実感したよ。もっと弾きこまないとプロとしてはやってはいけないかな。アルノルドの楽譜の中で、この楽譜が簡単な部類なのか、難しい部類なのかもわからないけど、もし、これが簡単な方だとしたら、彼の音楽はかなり高度で繊細かもしれないね」 どちらにしても、オーストリアではピアノのレッスン教室に通わないと、使い物にならないな、と自分でも感じてしまうくらい、楽譜通りには弾けたものの、満足の行く出来、とはいえなかった。 それでもプロだと言ってくる田山歩の耳は、現状プロ向きではないと言える。アメリカで素人相手に賞賛を浴びた時でも、そのへんの普通のピアニストレベルとしか見られていなかったのだろう、と思う。 自分が飛び込もうとしているのは、世界だ。ピアノに集中できた頃であれば、耳の良い審査員を納得させられただろうが、今では入賞すら出来るかわからないほど、腕が落ちているのがわかる。 アルノルドは、そんな自分に『プロ』として……ではなく、選択肢は自由だと言った。ただ、自分の傍に居ろ、と。ピアニストとしての腕を買われたわけではない。 ほんの物珍しい生き物が目の前にいただけの話だ。それに加えて、彼の性癖と自分が一致しただけの存在…… そう思えたら、涙が出てきてしまった……

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