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preparations 34
「うそつき……」
隣で眠っていた愛しい相手の寝顔を、少し早めに目覚めたアルノルドが微笑ましく見つめていると、閉じていた目蓋がゆっくりと上がり、そこから現れた瞳は、陽の光を反射して綺麗なアメジスト色を覗かせる。気怠げに目覚め、最初にクリスの口から吐き捨てられるように呟いた。
言われた張本人は、まったくの悪気もなく、ニッコリ微笑みながら疑問形で言葉を返した。
「なにが?」
「……オレ、今日も仕事だって言ってるはずだし。残った仕事を早く切り上げようと努力してるのに、毎晩こんなんじゃ終わるものも終わらなくなるし。日本を離れるのが遅くなる。アルの時間の許す限り、ここにいるのは構わないけど、このままじゃ、クリスマスまでに終われないし、受験対策だって間に合わなくなる。寝室を別にしないと躰がもたない……」
どこまで本気にしてるか分からないエメラルドの眸は、その輝きを細めて
「それはさすがに困るなぁ。僕はキミを迎えに来たんだから、タイムリミットはあるわけだ。それまでに、キミが満足のいく仕事をこなしてくれないと、キミは納得して僕についてきてはくれないのだろう?本当なら、今すぐにでも僕から仕事を依頼したいくらいなのに。
僕もね、ただ、日本に来たわけじゃないんだよ。ちゃんと仕事はするから。そのコンサートにキミのソロを入れて、やりたいと思うけど、それには時間が足りなさ過ぎる。現段階で、キミが僕のために時間を割いてくれるとは思えないからね。」
「そう思っているなら、労わってくれ。オレは行かない、とは言ってないはずだろ?」
「……わかったよ。その代わり、週末は離さないからね。」
「週末だって、仕事はするよ。お手柔らかに願いたいものだね。だいたいからして、なんでそんなに絶倫なんだよ。こっちの負担が半端ない……」
ため息交じりにそう告げると、少し面白くない表情をする。
「……誰と比較してるの?まさか、僕の知らないところで……?」
「あるわけないだろ?他人の行動を逐一チェックしてるヤツがなにをほざいているんだか……比較対象は自分だよ。過去についてはお互い様だから、そこには触れるなよ?オレ自身、アルほどの回数はこなしてこなかったんだよ。ただでさえ、こっちの方が負担が大きいってのに、アルは遠慮なくオレを前後不覚にするだろうが。淡白とはとてもじゃないけど言えない、しつこいよ」
ニヤリとアルノルドが嗤う。
「僕もセックスには、どちらかと言えば淡白な方だったよ?僕を変えたのは、キミだから。
キミだから、抱いてても飢えが満たされない。ずっと触れていたいし、もっとキミのことを知りたいと思うし、一つになりたいと思うんだ。それに、前後不覚になるのは、キミだけじゃない。僕だって同じだよ。キミがね、僕を変えたんだ。僕だって、キミじゃなければ、1回達けば、はい、さよなら、だったよ。僕はね、キミ以外の人間と一緒に眠ることはない。」
お互いに、お互いのセックスについて語るのは、あまり気分の良いものではない。アルノルドも皮肉交じりに口を開いた。アルノルドのセックスの対象は男性だ。
けれど、クリスは違う。
セックスをしてきたのは、すべて女性だ。
お互いに抱く側の立場であったのに、今は、クリスは抱かれる側の立場だ。
受け入れ体勢の出来ている女性と比べて、普段は排泄する為の場所で男を受け入れるのは躰にかかる負担は大きい。けれど、慣らされた躰はその場所でしか得られない快楽も知っている。
アルノルドの思惑通り、きっとクリスは女性を抱くことは出来ないだろう。アルノルド以外に抱かれることなども、考えたこともないが、子供の頃から、その手の誘いが多かったけれど、すべて断ったり、逃げたりしてきた。けれど、この男からは逃げられなかった。
願えばなんでも手に入ってきた男が5年も焦らされたのだ。入念な準備をするにはありあまる時間だと思う。その間もアルノルドは祖父・昂三とも、正面から交渉していたのだから、正当な手順も踏んでくれていたことも驚きだったが、最終的には強硬手段に出たのだが、そこまで追い詰められていた、とも言っていた。「Yes、か、はい」で答えろ、という逃げ道のない形で。
『銃口を突きつけられているのに、冷静だね』
銃社会で生れ育ってきたスラム出身のクリスには、銃を突きつけられることは初めてではなかったし、ティティーと出会う前のことではあったが、前回の方が、危機感は大きかったのだ。まだ、アルノルドは無茶なこととはいえ、選択肢を用意してくれていた。結局のところ、アルノルドは受け入れなければ、誘拐まがいのことをすると言っていたが、殺意は発していたが、殺すつもりはなかったのだ。たまに見せる、彼の中に流れる血がなせる業にゾッとすることがある。
世界的に有名な「指揮者 」であると同時にイタリアマフィアの血が流れている。
クリスは気だるい躰に鞭打つように起き上がり、シャワーを浴びてから、学校へ向かう支度を始める。
「隠れ蓑だとはいえ、本当に冴えない男に変身するね。」
クスクスと笑いながらアルノルドがその様子を伺っている。
「目立たないように生きていくには、コレが一番だし、眸と肌への負担も減るから、楽だよ」
確かに、今更目立つようなことをされても困るのは、アルノルドも同じだ。それこそ、女生徒に詰め寄られて、余計に仕事にならないだろうし、自分の愛するクリスにベタベタ触られるのも気分のいいものじゃない。『植田昂輝』という人間になりきって、出勤する姿を見送る。
「ヴァルター。僕らも支度を整えて、楽団の方へ向かうとするか。」
「あぁ。そうだな。」
少し不満げに答える。少し寝不足気味の表情で。
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