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preparations 26

タクシーを呼び、行き先をヴァルターに告げてもらいながら、目的地に向かう。 常に思うが、ヴァルターの語学力に感謝の一言だ。 「そういえば、あの彼女たちをタクシーまでエスコートしている間、何を話していたんだ?」 話し慣れたドイツ語でヴァルターに問う。 運転手も流石にドイツ語では理解できないだろう。 バカにしている訳では無いが、言語として日本ではメジャーな言葉ではない。 「節操なしだから、気をつけろ、と忠告しただけだ。 まぁ、あの子たちにその危険はないだろうがな。 性癖まで伝える必要はないだろう。 それと、クリスの公演の時にはチケットを贈るから、 今日のことは他言無用で、と伝えておいた。 見た目だけはいいからな、おまえは。」 「おまえ……一言多いんだよ。まぁ、僕も否定はしないよ。今までの行いは悪かったからね。この血筋が憎らしいほどには。けれど、クリスは別格だ。彼を知れば知るほど他には目は向かなくなるよ。 あれだけの逸材には、もう、二度と出会うことは出来ないだろうね。僕の努力は彼の為だけに注いできたんだ。あの日からね。今の僕があるのはクリスのおかげだよ。」 車窓の景色を眺めながら、アルノルドは統一性のない、ごちゃついた東京の高いブロックに囲まれているような街並みを眺める。ヨーロッパにはない奇妙な景色だ。 初めて彼を見つけた時のコンクールの時のインパクトは絶大だった。光の加減で揺れて色が変化するサラサラの金髪は美しく、その隙間から見え隠れする紫色の眸も、黒のタキシードから覗く白い肌も、恍惚とした表情も、アルノルドを釘付けにした。 「それは理解出来るな。実に好みだ。おまえの相手にしては、稀に見ないほどの最高の素材だな。 おまえが初めて自分から欲しがった逸材だ。 それに、ピアノの腕もたいしたもんだった。おまえのあのひねくれた曲を、初見であれだけ弾けるとは…」 ヴァルターは、ニヤリと口角を上げた。 「……クリスに手を出してみろ。その時は消す。」 「……はっ、面白い冗談だな。是非、その時は直々にお願いしたいもんだ。何もかも失ってしまえ。」 互いにきつい言葉を言い合うが、どちらも本気ではない。 「ふんっっ!!おまえを直々に殺して、犯罪者になるほど、僕は愚かではないよ。そんなことでクリスと離れ離れになるなんて、ごめんだね。」 鼻を鳴らしながら、その皮肉に応える。 「1度くらいは、お零れにあやかりたいくらいだけどな。おまえしか知らないなんてもったいなさすぎる」 「悔しいことに、クリスの躰を知ってるのは僕だけじゃないよ。男、という部分では僕だけだけどね。」 苦虫を噛み潰したような表情で吐き捨てた。アルノルドはその時のことを思い出しているようだった。 クリスの初めてを奪ったレディ·リリィも、永遠を誓ったはずの聡美も、もう、この世にはいない。 彼の女性経験はそれだけではないが、今の現状として、簡単に呼び出せる女性は、ほぼ皆無だ。男性からもアプローチを受けやすい見た目だけに、本来の姿でうろつかれるのは好ましくはなかった。 変装のお陰で少ないが、本質を嗅覚で見分ける聡美のような人物がいないとは限らない。 いろんなところを隠していても、肌のきめ細かさや、白さは隠しようがない。今のスタイルなら、それをまじまじと観る人間はいないだろうと思うが、心配でならないのがアルノルドの正直な気持ちだった。 少なくとも、大学時代を知ってる連中で、彼を狙っている人間がいないとも限らない。 実際、同級生が属する楽団から誘いを受けて、何度も断っていることも百も承知だ。 それを攫っていくのだから、相手からすれば、『何故』と思うだろうが、ポツポツと世界に出る楽団と、世界中を飛び回るアルノルドの専属となれば、相手も引かざるを得ないだろう。 皮肉にもヴァルターがアポイントを取り付けた楽団は、クリスの獲得を狙っている楽団だ。国内では三本の指に入るであろう、それなりにレベルの高い楽団のひとつだ。 クリスマスコンサートまでに、メジャーな曲とアルノルドの曲をアルノルドカラーで、演奏してもらうための来日だ。本来ならば、母国でも良かったのだが、そこにクリスが居ないのでは意味が無い。 終業式の後のお楽しみとして、コンサートを楽しんでもらう目的もあった。年内にはオーストリアに向かってもらわなければ困る。春までには彼のピアノの感覚を、音大時代まで戻さなくてはならない。 先を見据え、エスコートしていくことが楽しみで仕方ないのだ。厳しくはなるだろうが、原石は磨かなければ光らない。自分以上の憧れの存在に育てたいのだ。 そして、そのクリスに躰を開かせるのは自分だけだという優越感。何度抱いても湧き上がる飢餓感。そんなものを他人に譲る気など、微塵もない。 この独占欲の強さは自分でも驚くようなことだった。欲しいものはなんでも手に入る家庭に生まれ、容姿にも恵まれ不自由をしたことなど何も無かった。 逆にクリスは不自由だらけの世界に閉じ込められて生きてきた。宝石の原石を慈しむべき感情だったのか、埋もれさせる気だったのかは知らないが、萩ノ宮家のような閉鎖的な家庭に生まれてしまったのも不運としか言いようがない。母親ですら子供がどこで何をしていようが、放任主義の割に毎日のように食事を運んでくれる息子には感謝はしていたはずだ。 狂った歯車は、狂いっぱなしで噛み合うことがなかったのなら、そこから救い出す人物は必要だ。 これ以上ない底辺に沈んでいる美しい男に手を差し伸べてすくい上げるだけのことだ。 『ふっ』 と微笑んだ瞬間にタクシーは稽古場の敷地へと滑り込む。空かさずカードを運転手に渡し、精算を済ませ、 「ありがとうございました」 と微笑んで、そのタクシーを降りる。 防音がしっかりしているのか、エントランスに踏み込んでも微かな楽器の音がするだけで、大きな音が反響することはなかった。受付で今後も使う予定のIDカードを受け取る。 『僕好みに育ってくれることを期待しているよ』 独り言の後、ヴァルターと二人でエレベーターに乗り込んだ。

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