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preparations 31
そのあとの昂輝は、受験用にそれぞれの分野においてのお題を出した論文を読んだり、パソコンに向かったり授業に行ったり、と一日の仕事を静かに淡々とこなしていた。
論文には文法や単語が間違えているところなどに赤ペンを入れたり、と黙々とその作業をしているが、辞書など必要ないクリスにとっては、その作業はほかの教諭に比べると、遥かに早くこなしていた。
ヴァルターの計らいで目立たないように、その様子を見つめていたので、その後、その日は騒がれるようなことはしていなかったが、帰りにヴァルターの運転する『昂輝』の車が教師用の玄関につけられた時は、顔が引き攣った。
「確かにアルノルドはこの方が目立たないけど、逆に今後のオレが目立つ……」
メガネを外した目のあたりに手を当ててそう呟くクリスにアルノルドはクスリと笑った。
「あと僅かなことなのだから、そんなに気を張らなくてもいいんじゃないかい?」
「そうだけど……これ以上、本当に目立つのは困るんだよ。授業がやりにくくなる。受験を控えてる子達を相手にしてるんだから、他のことに意識を持っていかせてはいけないんだよ。それにオレの方が気が気でなくなる……」
プイッとアルノルドが座る席とは反対側の窓の方に顔を向けてしまった。窓に映る表情からして拗ねている様子だ。
「……ただでさえ、ほかの教員とも生徒達とも一線を引いて来たんだ。ここで崩れるわけにはいかないんだ……」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉が、少し悲しく聞こえる気がした。が、聡美とのことを匂わせるクリスに、これは帰ったらお仕置きだな、とアルノルドは決めた。
一度一線を超えてしまって深い傷を負ったことは承知している。だが、それはアルノルドにとってはラッキーなことで、その相手が、すでにこの世にいないこと……
聡美の存在が、さらなるストッパーになってくれてるのは有難くもあるが、この綺麗な顔を隠しておかなければならないのはもったいない。お披露目をするのは自分自身の手で、と思いつつ、手の中に収めておきたい相反する気持ちが交差する。国内オケからもオファーはあるらしいが、断りを入れていることは知っている。
そこまでして萩ノ宮の家にしがみつく理由がわからない。自分を雑に扱い、本来の戸籍である『萩ノ宮』の姓すら名乗らせてもらえない、萩ノ宮の家の人間の中では、1番の優秀な子供であるにも関わらず、ハーフであるがために、その色素ゆえに、その姿を隠しておかなければならない。
だからこそ、この男を輝かせたい、という第一印象から、必死にその姿を追ってきたのだ。その夢がもう、目の前にあるのかと思うと、その期待に胸が膨らむ思いだ。
それ以上に、クリスの存在が、自分の全てだと思うことも止められない。ステージ上での美しく光る角度によって色の変わる金髪のサラサラな髪色、うっすらと鍵盤を見つめる紫色の眸。
瞬間的に恋に落ちた。
恋、なんて感情を持ったことなどなかった。幼い頃から相手に困ることも無かったし、特定の相手を作るのも面倒くさいと思っていた。割り切った関係は楽だったし、束縛を好まないアルノルドに合っていると思っていた。
その時までは……
パンフレットで経歴を確認した時にさらに驚かされた。ピアノ歴がたった2年しかない。たった2年で日本の国内コンクールを総ナメにしていたこと。まだ、可能性に溢れた原石以上の輝きを放つ目の前の男の虜になったのだ。
即座に経歴を調べさせた。生い立ちも複雑ながら、その才能にも驚かされた。まさか、ピアノを始める前は物理学の研究者だったのだ。世界的に有名になっていた物理学者の相棒としての顔を持っていた。
その学者――レディ・リリィの論文の大半は、クリスが作り上げたものだろう。それが世界的に評価されているのだ。母親の事件さえなければ、連名で発表するはずだった論文は、レディ・リリィ名義で発表されていた。
1歩間違っていたら、彼はこのステージに上がることはなかったのかと思うと、その偶然に感謝すらした。本来であれば、別のステージに上がり、複雑な数式の説明をしていたのかもしれない。
名前からして、ヨーロッパ生まれかと思いきや、彼はアメリカ生まれのアメリカ育ちで、2年前、日本の父親に引き取られるまで、アメリカで生活していたのだ。レディ・リリィの家のハウスキーパーをしながら、母親の世話もしていた。日に2回、食事を置いてくるだけだが、酒に溺れていた母親の健康を気遣ってのことだろう。
そして、そんな母親に首を絞められて……
母親の出自を調べると、ドイツの田舎町で生まれているが、15歳以降の記録が残されてはいなかった。18歳でドイツを出国するまでの3年間の記録がどこにもないのだ。
父親の力を借りれば調べられないこともないだろうが、最終手段と考えていた。彼らの道を歩まないと決めた時から、その力を利用するのは道理ではないというのが理由ではあるし、すでに、兄を殺した相手を探すように依頼してしまっていたので、これ以上を頼るのは道義に反する、というアルノルドの考え方からも外れていた。
鬼籍に入っている女性のことなど調べたところで、なんにもならないこともわかっていた。
たとえ、恋した相手の親であっても。
高校の3年間の学校すら掴めないのは不思議ではならないが、掴めない理由になにかがあることには変わりない。
深入りするのは良くないと頭の中に警鐘が鳴る。
こういう時は手を引くのが一番だ。害があってからでは遅いのだ。自分の駒を使っても掴めない、ということが、どういう事なのか、自分の身の上でしっかり把握してるつもりだ。
特に、今はクリスを護らなければならない時期だ。そのクリスになにかあってからでは遅いのだ。
完全に萩ノ宮昂三は説得出来ていないが、連れ去るための来日だ。期末試験が終わり、終業式を終えると同時にオーストリアへ連れていく。
そのための荷造りはすでに始めていた。
学校用の衣装はクローゼットの中だが、夏服は全てダンボールにまとめてあるし、持っていくものは少しずつではあるが、必要なものもまとめている。
今使用してるものは、ほぼ全てが不要なのだ。
休日に着る服と何着かのスーツ以外には。
教員最後の日用には、特注品のスーツをオーダーしてある。
白ではないが、花嫁として相応しいものを……
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