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1章 2
2
時は3年前、2020年の春に遡る。
正哉と祥哉の父、西彰(にし あきら)が63年という短い生涯に幕を下ろした。
その日、祥哉は共に暮らす祖母である静子(しずこ)から仕事中に電話を受けた。彰が倒れたと言われ直ぐに病院に駆け付けたが、その晩に彰は旅立ってしまった。死因は脳梗塞だった。
本当にあっと言う間のことだった。父親が死んだという事実を受け入れる暇もなく、祥哉は彰の1人息子として葬儀の準備を始めることとなった。
感染症が大流行を起こしていたこともあり、彰の葬儀はごく近い親族のみで行われた。「あの子は他人を怖がるから、むしろこれでよかったわ」と静子は言っていた。
息子に先立たれた静子はことある毎に泣いていた。祥哉は彼女を慰めながら、彼女が自分の代わりに泣いてくれているのだろうかと思った。
静子は祥哉の母親代わりだ。
彰は長崎市で船舶の部品を作る小さな工場を経営していた。仕事が忙しく、職人気質で無口な彰に育ててもらったという記憶は祥哉にはあまり無い。ただ、祥哉の中で彼の趣味である映画のビデオテープを一緒に家で見ている時の姿だけは強く印象に残っている。
それでも父親の背中を見て育った祥哉は当たり前のように工業高校の機械科を卒業し、彰の工場で共に働いた。
これからは自分が父親の工場の経営者となるのだろう、と祥哉は漠然と思った。
「ねえ、祥ちゃん」
葬儀が一通り片付き、昔ながらの広い家に帰ってきた祥哉は、静子に声をかけられた。
「何? おばあちゃん」
返事をしながら食事室の椅子に腰掛けた祥哉に、静子はお茶の支度を始める。
「祥ちゃん、知りたいんじゃないかと思って。お母さんとお兄ちゃんのこと」
「…………お母さんとお兄ちゃん?」
突然の話に祥哉はただ鸚鵡返しをした。
やかんを火にかけて急須に茶葉を入れると、彼女も椅子に座る。
「ええ。お父さんは何にも話してくれなかったけど、気になってたんじゃないの? 昔、僕にはお母さんがいないって泣いてたじゃない」
「何、そんな昔の話」
子供の頃の話なんて照れ臭くて祥哉は少し笑った。30年前の事も、83年生きている静子にとってはつい最近の話なのかも知れない。
彰は別れた妻やもう1人の子供について何1つとして口にしなかった。静子も彼に倣って今まで何も話してこなかったし、祥哉も何も聞かなかった。子供の頃から家族については聞いてはいけないという雰囲気を察していたのだ。
「まあ、お父さんもあのドイツ人とは連絡とってなかったから、私もよくは知らないんだけどねぇ」
“あのドイツ人”とは、祥哉の母親のことだ。2人はの馴れ初めは祥哉も知らないが、父親は日本人で母親はドイツ人。祥哉は日本生まれ日本育ちのハーフなのだ。
「今、どこにいるのかな。お母さんも、僕の双子の兄も」
やかんを温めるガスコンロの火を見ながら、ぽつりとそう言った祥哉。静子は彼を悲しげに見つめる。
「多分、東京だよ。祥ちゃんも生まれた時は東京にいた。あのドイツ人はお父さんと離婚した後、どうも別の男を作ったみたいだよ」
「東京……」
祥哉が東京に行ったのは、記憶にある限りでは中学校の修学旅行の時だけだ。衝撃的だった大きな建造物、都会の喧騒────長崎の片田舎で育った祥哉にとっては遠い世界だ。
やかんに入ったお湯が沸き、立ち上がりながら静子は話を続ける。
「お父さんは昔、東京の大学で勉強して卒業してからも東京で働いてたんだよ。あのドイツ人とはその時に出会ったらしいよ」
「会えるかな……」
「電話番号もわからないからねぇ。難しいと思うよ」
彼女は急須から湯呑みにお茶を入れる。
「大体、居場所が分かったって今は東京なんて危ないよ」
2020年、疫病の感染は拡大を続けている。不要不急の用事でもないのに東京に行ってこの田舎にウィルスを持ち込もうものなら正に村八分だ。それにもし祖母に感染したら重体になるリスクも大きい。
「そうだよね。分かってる」
言いながら静子からお茶の入った湯呑みを受け取る祥哉。
「でも気になるよ。正哉……だっけ? 僕の双子がどんな風に成長してるのか、とか。やっぱり僕とそっくりなのかなぁ」
1つの卵子から分離し、同じ子宮で育って生まれてきた自分の片割れのことを全く知らないなんて、きっと不自然なことのはずだ。母親はともかく、双子の兄のとこは気になる。
「きっと祥ちゃんに似てイケメンよ」
静子はそう言って笑った。ここ最近泣いてばかりいたが、本来の彼女は笑い上戸で元気な女性だ。
「祥ちゃんはこんなにイケメンなのにガールフレンドがいないなんてねぇ」
「はは、きっと顔は問題じゃないんだよ」
祥哉の渇いた笑いに、神妙な顔をする静子。
「やっぱりお父さんがああだったから、家庭を持とうって思えないのかい?」
「いや……、そういうわけじゃないんだけどね……」
祥哉には温かい幸せな家庭というものが想像できない。もしそういうものを知っていたら、それが欲しいと思えたのだろうか。
わからないのだから、静子の言うことが当たっているかどうかもわからない。
ただ祥哉は他人にあまり興味を持てないのだ。孤独に恐怖心を抱いたこともない。他人と関わることを億劫に感じてしまう祥哉にとって孤独とは安らぎに過ぎない。
黙ってしまった祥哉に、静子は膝を叩く。
「まあ、私は祥ちゃんが幸せならそれでいいんだよ。お父さんみたいに機械いじりが好きならそれで生きていけばいい」
「うん……、ありがとう。おばあちゃん」
祥哉はそう返して微笑んだ。
静子は田舎に住むその年齢層の人間としては珍しく、孫に結婚も子供も出世も強くは求めない。それが個人主義的な祥哉にはありがたかった。
お茶を1口飲み、静子は溜め息をついた。
「……あの子も、もうちょっと長く生きていればまた東京オリンピックが見られたのにねぇ。あんなに早く逝っちゃって」
そして彼女は力なく笑った。
数ヶ月後、静子も脳梗塞で倒れた。
一命は取り留めたものの全身に麻痺が残った静子は入院し、翌年2021年の6月に彰の後を追うように息を引き取った。
2020年の夏に行われるはずだった東京オリンピックは、疫病ウィルスの感染拡大の影響で2021年の夏に行われた。西静子も彰と同様、東京オリンピックを再び見ることはできなかった。
祥哉は静子が亡くなってから彰の工場を共に経営していた伯父と従兄弟に任せることにした。そして長年住んでいた家を引き払ってその安い土地を売却した。
祥哉にとって自分の持ち物は全て重荷でしかなかった。何もかもを捨てた彼はスーツケース1つだけを持って東京に向かった。
物にも人にも執着しないはずの祥哉がただ1つ心に引っかかっていたもの、双子の兄を探す旅に出たのだ。
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