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1章 3
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「あら、それで1人で東京まで来てこの2年間ずーっと私達のこと探してたの?」
祥哉の正面に座った中年の白人女性は目を丸くしてそう言った。
彼女は戸田アンネッテ。正哉と祥哉の実母であり絵里奈の義母だ。
土曜日の昼。正哉、祥哉、絵里奈の3人は予定通り最寄駅で待ち合わせてアンネッテの家であるマンションを訪れている。
祥哉、絵里奈、アンネッテはダイニングのテーブルを囲み、正哉は少し離れてソファに座っている。そして祥哉がここに来るまでの経緯を話すのを皆聞いていた。
祥哉はアンネッテが聞き返してきたことに頷いた。
「はい、正直本当に見つかるなんて思ってませんでしたが」
「あっはっは、そりゃそうよねぇ。東京ったって広いもの。本当に驚いたわ」
アンネッテは手を叩いて笑う。先程から彼女はよく笑いよく喋る。正直、祥哉は自分の母親であるアンネッテの人柄や容姿に少々驚いていた。
あの無口な父親の元妻がこんなに明るく笑い、話す人間だとは想像していなかった。彼女の娘である絵里奈の容姿と対照的な、栗色の巻き毛と濃い化粧、若作りな服装も意外だ。
そもそもアンネッテは何か事情があったにせよ、1歳だった祥哉を手放してそれから一度も会いに来ることはなかった母親なのだ。普通ならもう少し祥哉に対して遠慮や悪びれる様子があってもいいものだが、彼女にその様な素振りは一切ない。
「……あの、絵里奈さんは僕の妹なんですか?」
ずっと疑問だったことを言った祥哉に、アンネッテ。
「え? うーん、違うわね。えりちゃんはね、私の旦那……あ、彰さんじゃなくてその後のね、戸田直紀って人とその人の元妻の子供なの。私ともあなたや正哉とも血の繋がりはないわ」
「はぁ……その、戸田直紀さんは?」
「もういないの。15年くらい前に、病気でね」
「ああ、それはお気の毒に」
つまりアンネッテは彰と離婚した後、絵里奈という連れ子がいる戸田直紀と結婚した。そして絵里奈は戸籍上アンネッテと親子関係に、正哉とは兄妹関係になった。しかし戸籍上家族ではなく勿論血の繋がりもない祥哉と絵里奈は赤の他人、というわけだ。
「えりちゃんとは映画館で出会ったんですって?」
「はい、新宿の」
「新宿の映画館って……、えりちゃんがよく行ってるあの小さいところ?」
アンネッテの質問に、絵里奈が嬉しそうに頷く。
「そうだよ。祥哉さんね、とっても映画に詳しいの」
「あらそうなの。あんなマニアックな映画ばっかりやってるところ行くんだから、相当映画好きなのねぇ」
「ええ、まあ。趣味が映画くらいしかなくて」
「まあ、彰さんと同じね。でも趣味があるだけいいわ。正哉なんて何にも無いんだから」
そう言うアンネッテに、ソファでスマートフォンを操作していた正哉が顔を上げる。
「何にもってことないよ、母さん」
「ええ? 何かあったかしら?」
「……酒とか」
「そんなの無いようなもんじゃない。健康に悪いわ」
アンネッテと絵里奈が笑うので、正哉は黙ってまたスマートフォンの画面に目線を戻してしまった。女性2人に逆らうほど彼は子供ではないようだ。
「それで……祥哉さんはこっちに来てから仕事は何をしてるの?」
アンネッテにそう訊かれ、正哉を見ていた祥哉は彼女に視線を戻す。
「また工場で働いてますよ。船舶の開発で運良く雇ってもらえて」
「長崎での経験を活かして働いてるのね」
「まあ、そんなところです」
最終学歴が工業高校、そして父親の船舶の部品を作る工場でしか働いたことがなかった祥哉。機械系の技術職以外に働き口などないだろうと東京に来た時から思っていた。
それにしてもまた造船業に携わることができたのは本当に運が良かった。
「さて、そろそろお昼にしましょ」
そう言って椅子から立ち上がるアンネッテ。
「祥哉さんも一緒にお昼食べて行って」
「はい、ありがとうございます」
「いいのよ。正哉はどうするの?」
再び声をかけられた正哉は彼女を一瞥する。
「もらってく」
「はいはい」
台所に立つアンネッテに、絵里奈も「手伝う!」と立ち上がった。血の繋がりは無いが仲の良い親子なのだろう。
しかし仲が良いのにわざわざこのマンションの近くで絵里奈が一人暮らしをしているのは何故なのか。長崎にいた頃はずっと何も考えず実家で暮らしていた祥哉にはよくわからない。
祥哉も椅子から立ち上がり、正哉が座っているソファの横に立った。すると正哉が顔を上げる。
彼はスーツ姿だった昨日とは違い、身につけているのはストライプの入ったシャツとライトグレーのスラックス。髪も昨日はオールバックにセットしていたが、今は下ろしている。
無表情に自分を見上げる彼に、祥哉は微笑んだ。
「お酒、好きなんだ?」
「……まあ、そんなに詳しくないけどよく飲むよ」
祥哉が敬語を使わずに話しかけると正哉も同じように返してきた。自分の唯一の兄弟と少し距離が縮まった気がして、祥哉は嬉しかった。
「何飲むの?」
「何でも飲めるけど、家で飲むために買うのは大体日本酒」
「いい趣味だね。僕はあんまりお酒の味の違いとかわからないから、かっこいいと思うな」
「君はお酒飲まないの?」
「たまにしか飲まない。あんまり酔わないから面白くないし」
祥哉の言葉に、正哉は笑って言う。
「酒は酔うために飲むもんじゃない」
「へぇ……」
生返事をした祥哉。初めて見る正哉の笑顔が綺麗だと思った。細められた琥珀色の目が、長い睫毛が、整った彫りの深い顔立ちが、形の良い唇が、美しい。
自分と同じ顔のはずなのに、こんなに綺麗だと思うなんて何だか不思議な感覚だ。普段自分の容姿に何の頓着もないどころか、他人の容姿に何かを感じることもほとんど無いというのに。
突然黙った祥哉に正哉は不思議そうな顔をした。
「祥哉さん?」
「あ、いや……僕も色んなお酒飲んでみたいな」
慌てて祥哉はそう返した。するとまた笑顔を見せる正哉。
「なら私の家に来るかい? 日本酒ならたくさんあるけど」
「え、いいんですか?」
意外な正哉からの誘いに祥哉は驚いた。昨日会った時の印象から彼はもっとガードの固い男だと思っていたが、そうではなかったらしい。
昨日挨拶に送ったメッセージも既読しか付かなかった。しかし先程自分の話を聞いたことで信用してもらえたのだろうか。
「勿論いいよ。私もこの近くに住んでるし、この後でも来たらいいよ」
「ありがとう……、それなら是非お邪魔させてもらうよ」
何故だかとても胸が高鳴り、祥哉は唾を飲み込む。正哉の家に行ける、そう思うだけで口元が緩んだ。
間も無く2人は絵里奈とアンネッテに呼ばれ、ダイニングのテーブルへと向かった。
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