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1章 4ー1

4  ニイニイゼミの鳴く声がする。  東京に来たばかりの時、はじめてそこで蝉の鳴き声を聞いた祥哉は東京にも蝉がいたんだなと思った。東京も決して人工物しかない街ではない。  6月半ばを過ぎると昼間はかなり暑い。しかし梅雨はまだまだ明けず湿度が高く、空気が肌にまとわりつくようだ。  正哉が住むアパートは彼の実家から歩いて15分程度の場所にある。2階建てで築11年。正哉はそこに8年前から住んでいる。  祥哉を連れてきた正哉は、自分の部屋である105号室のドアを開け、後ろを付いて来ていた祥哉に振り返る。  「入って」  「あ、うん。お邪魔します」  おずおずと部屋の中に入る祥哉。履き古したスニーカーを脱いで部屋に上がると、後ろから正哉が入ってきてドアを閉めた。  「暑いね。エアコンつけるよ」  「ありがとう」  15分歩いて来たこともあり、2人共少し体が汗ばんでいた。家の中も蒸し暑い。  部屋の間取りは1DKだ。都内の独身者の部屋にしては広い。ダイニングを通り奥の部屋に行く正哉。ベッドの枕元に置かれていたエアコンのリモコンを手に取り、除湿で稼働させた。  祥哉はダイニングで立ち止まった。そこにあったテーブルには確かに日本酒が入っているらしい箱が幾つか置いてあった。日本酒に詳しくない祥哉にはそれがどれくらい価値があるものなのかわからないし、箱に書いてある漢字を読めもしない。  正哉がシャツの手首の釦を外し、腕捲りをしながらダイニングに来た。  「何か飲む? 麦茶か……水ならあるよ」  そう言って、日本酒の箱を眺めている祥哉を見た正哉。  「……それ飲みたい?」  「あ、いや。とりあえず水貰うよ」  「うん。まあ、昼間から酒っていうのもいいけどね」  言いながら正哉は冷蔵庫から水のペットボトルを出す。冷蔵庫の中にはまだ何本か日本酒が入っているのが見えた。そして飲み物以外のものはほとんど入っていなかった。  台所に調味料らしきものは塩と醤油くらいしか無く、コンロも汚れていない。ほぼ自炊はしていないのだろう。  2つのグラスに水を入れた正哉は、それを奥の部屋に持って行き、ローテーブルの上に置いた。  「座って」  正哉に言われた祥哉は、部屋に入ってローテーブルの横にあるクッションの上に座った。エアコンでそちらの部屋は涼しくなり始めている。  「綺麗な部屋だね」  「そう?」  正哉の部屋を見回す祥哉。この部屋は整頓されているというより物が少ない。本当に酒以外の趣味が無いらしいが、それにしても正哉という人格が見えない部屋だ。  「君の部屋は汚いの?」  尋ねられ、祥哉は首を傾げる。  「……汚くはないと思うよ」  「へえ。絵里奈の部屋は汚くてさ、たまに掃除してやってる。彼女、物が捨てられない人だから」  「絵里奈さんの家、よく行くの?」  「うん。8年前に絵里奈が一人暮らしするって言うから心配で私もここに引っ越したんだよ。それまではもっと職場に近いところに住んでた」  正哉の話に祥哉は驚いた。  彼が絵里奈を気にかけていることは何となくわかっていたが、わざわざ彼女が心配で引っ越すなんて。8年前なら彼女は22歳だ。一人暮らしをするのにそこまで心配されるような歳ではない。  祥哉が考えていることを察してか、正哉は自嘲気味に笑った。  「心配し過ぎって思うよね」  「ああ、いや」  「絵里奈は普通の人とちょっと違うから……、障がいがあってさ。母さんは放任主義だけど私はそうできなくて」  「優しいんだね」  祥哉の言葉に、正哉は何も言わず首を横に振った。妹をそこまで思いやれるのが優しさ以外の何だと言うのだろう。  「でも何で、絵里奈さんは一人暮らしを始めたの?」  正哉がそこまで心配するなら絵里奈は母親とあの家で暮らせばいいのではないか、と先程から祥哉は思っていた。  すると正哉は溜め息を吐いた。  「母さんに彼氏がいるんだ。よくあの家にも連れて来てて、さすがに絵里奈も出て行きたいと言い出した」  「え……」  目を丸くした祥哉。アンネッテは自分と正哉を産んでからすぐ離婚し、新しい夫を作り、その夫が他界したら障がいのある娘のことも気にせず彼氏を連れ込んでいる。彼女は生涯において子供のことを考えて行動することなどないというのか。  祥哉の反応に正哉は苦笑する。  「母さんにも母さんの人生がある。私もあの人が許せない時期もあったけど、今はもう好きにしてくれたらいいと思ってるよ」  「……納得してるんだね」  沈黙が降り、グラスに入った水を飲む祥哉。また部屋を見回すと、ベッドサイドに目が止まった。  デジタルの置き時計と、ティッシュペーパーの箱。そしてその横にコンドームの箱が置いてあった。箱は空いている。  恋人がいるからこんなに部屋を綺麗にしているのか、と祥哉は思った。その割に女性が定期的に寝泊まりしていそうな物──女物の部屋着や化粧品は見当たらない。  聞いてみようかと祥哉が思ったところで、正哉が立ち上がった。  「やっぱり日本酒飲もうか」  「ああ、いいね」  コンドームの箱を見ていた祥哉は、それをはぐらかすように反射的に彼に同意した。  彼は台所に行き、棚からとっくりと日本酒用の小さなグラスを出す。  「どういうのが好きとかある?」  「えっと、よくわからないけど……多分辛口の方が好き。あと、にごりは好きじゃないかな」  「よかった、同じだね。じゃあ辛口のやつ適当に出すけどいい?」  「うん、ありがとう」  祥哉はそもそも普段から甘い物を口にしない。甘いジュースやカクテルと日本酒の甘口では甘さの種類が全く違うが、数少ない日本酒を飲んだ経験の中では辛口の方が好きだった覚えがある。  正哉は冷蔵庫の中の一升瓶からとっくりに日本酒を移し、グラスと一緒にそれを持って来た。そして「これしか無いけど」と柿の種もローテーブルの上に置く。  「あ、柿の種好きだよ」  「そうなの? 味覚は似てるのかもね」  そう言ってニコリと笑った正哉は、グラスに酒を注いだ。その日本酒用のグラスは、菊繋ぎ紋が入った紫色でもう一つは青色だ。  「それ、凄く綺麗なグラスだね。高かったんじゃない?」  「まあ、ちょっとね。酒の方は全然高いやつじゃないけど私がすごく好きな味なんだ」  正哉は紫色のグラスを祥哉に手渡し、自分は青色のグラスに酒を注ぐ。  いただきます、と祥哉は舌に転がすように少しだけ酒を口に含む。最初は辛口にしては柔らかい味が口の中に広がった。後味はすっきりとしてキレがあり、爽やかな香りが鼻に抜ける。  「……美味しい」  一言、総括して祥哉はそう言った。後に引かない癖の無い味わいでいくらでも飲めてしまいそうだ。  正哉も酒を1口飲む。  「うん、やっぱり美味しい」  「すっきりしてて凄く飲みやすいね」  「だよね」  祥哉にも自分が好きな日本酒を気に入ってもらえたのが嬉しかったのか、正哉は機嫌良さげにもう1口酒を口に含む。そして彼は長い髪に隠れた祥哉の顔を覗き込むように見た。

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