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1章 10ー3
セットアップのスーツはきちんとハンガーにかけてある。それに手を伸ばそうとして、ふとリョウは手を止めて正哉に振り返った。
「そういやマサさん、あんた男兄弟とかいる?」
「…………は?」
椅子の上に置いていた下着を着ている最中だった正哉は目を丸くした。あまりに自分の今の悩みの種をピンポイントに突いた質問をされた。
その様子にリョウは首を傾げる。
「へ、なんか聞いちゃいけなかった?」
「い、いや……いるようないないような。何でそんなこと聞くんだい?」
実際は弟がいるが戸籍上はおらず、その弟と先週セックスしてしまったためにめんどくさいことになっている──と正哉はもう正直に言ってしまいたい気分だった。
珍しく戸惑っている正哉に怪訝そうな表情をしたリョウ。
「俺、今日の夕方あんたが帰ってきてないかなって思って一回ここを見にきたんだ。いなかったからとりあえず飯食いに行ったんだけど……その時このアパートの前に男がいてさ」
「男?」
「うん。それがあんたそっくりで一瞬あんたかと思って声かけようとしたけど、あまりにも格好が違ったからやめたんだ。髪の毛ボサボサで、カーゴパンツなんか履いてさ。俺見ても何も反応せずにどっか行っちゃったし。やっぱあれあんたじゃなかったよな……」
リョウの話に正哉はごくりと唾を飲み込んだ。
彼が見たのは恐らく祥哉だろう。しかし何故、今日あの男がここに来ていたのか。しかも自分が留守の間に。会うのは明日のはずだし、ここに来たのに自分に会わずに去っていったのも意味がわからない。
「それであんたの弟か何かだったのかなって思ったんだけど……、マサさんどうした?」
黙り込み、俯いたままの正哉の顔をリョウが覗き込む。すると彼は顔を上げた。
「い、いや……多分私の知らない人だよ」
「そう? 本当に似てたんだけどな」
そう言いながらリョウは再びスーツを着ようと正哉に背を向けた。するとベッドに座ったままの正哉が彼の手首を掴んだ。
「待って、リョウ君」
「ん?」
振り返ったリョウに見下ろされる正哉。
「……今日、泊まってかない?」
不安でたまらなかった。今だけは一人になりたくない。祥哉のことを頭から引き離してくれる誰かと一緒にいたい。
しかしリョウの口元からは笑みが消えた。
「…………何言ってんの、マサさん」
リョウは掴まれた手首を引いて彼に手を放させる。
「あんた今日ホントにおかしい」
「もう1回ヤってもいいから」
「いや、それは尚更まずい。あんたもわかるだろ、そういうことはしない方がいいんだ……お互いのためにさ」
リョウが言いたいことは正哉にもわかっていた。都合よくいつもセックスだけをしてくれる彼を、自分が不安定な時だけ都合良く隣に居させようとしている。悪いことだとはわかるが、それでも今日は理性が上手く働かない。
「明日の朝まで、一緒にいたい」
「……マサさん、やめてくれ」
そしてリョウは正哉の隣に座り、顔を近づける。
「あんたのそういうところ、見たくなかった……。本気になっちまう」
「リョウ君……」
「あんた、俺に本気になられたら困るだろ?」
リョウの顔がキスできそうなくらい正哉の近くにある。正哉の琥珀色の両目が潤んだ。ここでキスをしてしまったら、彼との関係は変わってしまう。そういうことなのだろう。
「ごめん、リョウ君」
正哉はリョウの胸元を手で押し、距離を取った。
変えてしまってはいけない。自分は絶対に彼の期待には応えられなのだから。
リョウは再び口元に笑みを作る。しかしその表情は少しだけ悲しそうに見えた。
「そうだよな」
「ごめん。二度と言わない」
「そうしてくれ」
正哉の肩を叩き、リョウは立ち上がる。
「マサさんはイケメンだし頭もいい。優しいしさ。だからあんたにが弱ってるとついそこに付け込みたくなる。多分みんなそうだからさ、その気が無いなら気をつけた方がいいと思う」
「もう十分、わかってたつもりなんだけどね」
1回りも年下の青年に自分は何を諭されているのだろう、と正哉は自嘲の笑みを浮かべた。
リョウはスーツを身に付け始める。
「うん、あんたはわかってると思ってた。だから今日は本当にしんどいんだよな」
「…………正直しんどい。でも今日来てくれたのが君でよかった」
「まあ、あんまり無理すんなよ。あんたとセックスできなくなったら嫌だし」
「それは私もだよ」
そして2人は笑い合った。
リョウは割り切った関係性が続けられ、分別がある青年だ。若者にしては聞き分けが良く、それは全てに諦めているようにも見えるが、正哉にとっては貴重な存在だ。
「それじゃあ、俺行くから」
スーツを着たリョウがそう言ったので、正哉がベッドから立ち上がる。
「うん、今日はありがとう、リョウ君」
「ああ、また気が向いたら来るな」
リョウが部屋から出ていく。家のドアが閉まる。
家の玄関の鍵を閉め、正哉はそのまま玄関に座り込んだ。
噛まれた首や肩が少し痛む気がする。自分を抱いた男の温もりが恋しい。あの熱を、いつまでも感じていられたら。
今は不安と孤独だけがここに在る。畏怖と共に明日を迎えるのか。
この先、弟と自分と妹はどうなっていくと言うのだろう。どうすれば妹を守れるのだろう。
もう全てを投げ出して逃げたい。それもできないのなら────明日は来なくていい。
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