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1章 11
11
7歳という年齢にしては彫の深い顔立ち、琥珀色の瞳。着古した服を着た見窄らしい内気な少年──正哉・クラウゼ。
小学2年生の正哉は、学校では虐めの標的だった。毎日のように同じクラスの男の子達からは殴られ、蹴られ、服を脱がされた。教科書を破られ、上履きや体操着を隠された。
母親、アンネッテは正哉に無関心だった。正哉が学校から帰ると、しばしば家に知らない男性がいた。アンネッテも見知らぬ男達も、皆冷たい目で正哉を見下ろした。
アンネッテに「学校に行きたくない」と言うとふざけるなと怒鳴られた。物を無くしたり、忘れ物をしたり、服を汚したり、少しでも彼女の意に反することをすれば怒られた。
アンネッテは怒ると正哉に「産むんじゃなかった」と叫んで物を投げた。
金は無く、家族は皆母国であるドイツにおり、孤独で、男との関係もいつも安定しない。常にアンネッテはストレスを抱えていたのだと大人になった正哉にはわかる。
しかし当時の正哉にとって母親は唯一の家族で、自分の全てで、恐怖の塊だった。
「要らない子」──正哉はいつの間にか自分をそう思うようになっていた。自分が誰からも必要とされず、母親を苦しめるだけの存在ならば死ななければ。そう思い始めたのはこの頃からだった。
「お前、正哉……だっけ?」
7歳のある時、アンネッテは買い物か何かで出掛けており、家に正哉とアンネッテの彼氏と2人きりになった。
その青年はアンネッテと関係を持ち始めたばかりで、正哉にとっては初めて見る男だった。
「うん、正哉だよ」
「ふーん。俺は白城(しらき)。可愛いな、お前」
白城と名乗った青年は正哉の頭を撫でた。そんな風に馴れ馴れしく接してくる男性は初めてで、正哉は彼が少し怖かった。
「お前さ、自分のお父さんのこととか覚えてるの?」
そう聞かれ、正哉は首を横に振った。
「見たことない」
「そっか、寂しくない?」
その質問に今度は首を傾げる正哉。自分の感情を上手く言語化できるようにはなっていなかった。
その様子に、白城は少し笑った。
「お母さんいるもんな、寂しくはないか」
「……でも僕、要らない」
「え?」
「お母さんには、僕は要らないの」
白城は正哉の言葉に目を丸くした。そして悲しげな笑みを作る。
「要らなくなんてないさ。お前はいい子だ」
そう言って白城は正哉を抱きしめた。
その温もりは少し怖くもあったが、優しさも感じた。そんな風に接してくれた男は初めてで、正哉は直ぐに彼に懐いた。
初めて正哉のことを肯定し、優しく接してくれた人。正哉がアンネッテの彼氏に懐いたのも初めてだった。
しかし、その数日後のことだった。アンネッテが家にいない間に白城は正哉に口淫をさせた。
正哉は彼が好きだった。だから陰茎を舐めてと言われて戸惑いながらも言う通りにしてしまった。
口の中に射精されてその嫌な匂いと味に泣いてしまったが、彼に抱きしめられて頭を撫でられると全てどうでも良くなった。
このことは2人だけの秘密だと言われた。彼との秘密ならそれも嬉しかった。
その後も正哉は白城に何度も口淫した。体に触られ、舐められた。陰茎を尻の割れ目に擦り付けられた。
彼の言うことを聞くことで彼に必要とされているという実感を得た。その時は「要らない子」ではないと思えた。
2年後、正哉が9歳になり、ついにアンネッテに見つかるまで白城の正哉に対する性的虐待は続いた。
白城は最後に正哉に「またいつか会おう」と言った。
彼にされたことは正哉にとっては不快なことだったが、それでも自分を必要としてくれる彼が好きだった。彼と会うことができなくなり、また「死ななければ」という思いが正哉の中で大きくなった。
それから間も無く、アンネッテは戸田直紀と出会った。その頃から急にアンネッテの気分の浮き沈みは少なくなり、正哉が彼女に怒鳴られることも減った。
穏やかで優しい直紀と、ぼんやりしがちな鈍臭い絵里奈。正哉は直紀とは直ぐに話せるようになったが、当時まだ3歳の絵里奈とはどう接していいのかよくわからなかった。アンネッテ達に一緒に遊んでいなさいと言われても大抵は別々に1人で遊んでいた。
1年後、正哉が10歳の時、アンネッテは戸田直紀と再婚した。正哉・クラウゼは戸田正哉となり、絵里奈は正哉の妹になった。
家庭が安定し始めたことで正哉の自己肯定感は少しずつ回復していったが、「死ななければ」という思いは頭の片隅に残り続けた。その言葉が頭を過ぎる時、いつも白城が一緒に思い出された。
14歳の時だった。
直紀もアンネッテもいない家で、正哉は台所に立っていた。水切りラックの隣に置かれた包丁を眺めていた。
先程直紀が洗ったばかりのまだ水滴が付いた包丁。それで首を切れば死ねる、と正哉は度々思っていた────14歳になってもまだ、正哉に希死念慮は付き纏っていた。寧ろそれは尚のこと大きくなっていた。ただ怖くて死ねずにいた。
「悲しいの?」
突然そう話しかけられ、声の主である絵里奈に正哉は驚いて振り返った。まだ7歳の、幼い女の子。
「包丁、危ないよ」
「…………見てただけだよ」
その頃の絵里奈は基本的に口数が少なく、表情に乏しかった。大人になってからは家族の前でだけは饒舌になったが、当時の絵里奈は普段ほとんど正哉と話していなかった。
そんな彼女が突然話しかけてきたので、正哉は驚いていた。
「絵里奈、どうしたの?」
正哉がそう尋ねると、絵里奈は僅かに首を傾げた。
「……生きていたいと思えないのはいけないことなのかな」
「え……?」
「私はお兄ちゃんが死んだら凄く悲しい。でも死にたいと思ってても、悪くないと思うよ」
あまりにも唐突な言葉だった。何故彼女がそんなことを言うのか全くわからなかった。
しかし正哉の目からは涙が溢れ出た。
「……何で、」
何故彼女が知っているのだろう。自分がずっと死にたがっていることを。
誰にも言っていなかった。言ってはならないとわかっていたから。言えば絶対に怒られ否定されると知っていたから。
「何で、絵里奈が……」
膝から崩れ落ちた正哉。ずっと欲しかった言葉を、「死にたいと思っている自分の肯定」を、たった7歳の女の子に与えられてしまった。
目の前で泣き出した少年を絵里奈は変わらず無表情で見つめていた。そして正哉が泣き止むまで、彼女は何も言わずそばに寄り添っていた。
その時絵里奈は正哉の唯一の理解者となった。
それから数ヶ月後だった──正哉の前に再び白城が現れたのは。
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