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2章 1-1

2章 1  「やあ、正哉さん」  土曜日、午前11時に祥哉は約束通り正哉の家に来た。いつも通りのティーシャツにカーゴパンツ、無精髭の生えた口元には穏やかな笑みを浮かべて。  外は雨が降っており、祥哉は濡れた傘を畳む。今日も梅雨らしい蒸し暑さだ。  ドアを開けた正哉は、彼の姿に溜め息を吐きながら「入って」と言った。  彼は玄関に足を踏み入れ、ドアを閉める。濡れた靴を脱いで部屋に上がると正哉の手首を掴んだ。  「会いたかった」  「…………っ!」  正哉の手首を祥哉が引き、体を抱き寄せるとその唇を奪った。  突然のことに驚いた正哉だが、すぐに祥哉の胸を押して唇を離す。彼は恋人にでも会いに来たつもりなのか。本当に気持ち悪くて腹が立つ。  「やめてよっ」  「ああ、ごめん。ついね」  そう言いながらも祥哉の手は正哉の手首を離さない。彼のその目は正哉の首元を見ていた。  「……やっぱり昨日、あの若い子とセックスしたんだ」  祥哉のもう片方の手が正哉の首筋に触れる。薄紫色のシャツの襟元から覗くそれには薄く昨日リョウに付けられた赤い歯型が浮かんでいる。  やはり祥哉は昨日この家の前にいて、リョウとすれ違っていたのだ。しかも今の口ぶりから推測するに、彼はリョウがこの家に入るのを見ていた。これではストーカーも同然だ。  正哉は祥哉のその手を叩いた。  「なんで昨日私の家の周り彷徨いてたんだい?」  「僕にはキスマークも付けさせてくれなかったのに。特別な人なの?」  「私の質問に答えなよ」  「付き合ってる人いないって言ってたのに」  「気持ち悪いなぁ、君は!」  全く会話が成り立たない祥哉に、正哉はついに少し声を荒げる。そして自分の手首を掴む彼の手を振り解こうとした。  しかし祥哉の力は強く振り解くことができない。田舎育ちだからなのか、仕事の違いか、彼は正哉より力があるようだ。  彼のもう片方の手が今度は正哉の襟首を掴んで引き寄せる。  「僕から逃げないでよ、正哉さん」  「…………」  祥哉の顔が目の前にある。正哉は彼の真っ直ぐな瞳に恐怖した。得体の知れない、純粋な男。  「あなたが好きだ。あなたと一緒に生きていきたい」  「私は誰も好きにならない」  「じゃあ昨日のあの人は何?」  「ただのセフレだよ」  「ただのセフレにこんなことされたの?」  祥哉の手に強く握られ、正哉襟元の釦が一つ外れた。首筋にあるたくさんの赤い歯型が彼は気に食わないようだ。  「正哉さんは乱暴にされていいような人じゃない」  「……違う、私がしてって言ったんだよ」  正哉の返答に、祥哉は驚いた表情をした。そして再び口元に笑みを浮かべる。  「僕にはしてって言ってくれなかったのに?」  そう言った祥哉は、すぐ横の壁に正哉の体を押し付け、キスをした。  「やっ……!」  正哉は恐怖にもがき、勢いをつけて壁と祥哉の間からなんとか抜け出す。そのまま床に膝をついた彼を祥哉が見下ろす。  「逃げないでって。明日絵里奈さんに同じことしてもいいんだよ?」  「…………っ、最低だね。やっぱりこういうつもりだったんだ」  よろめきながら立ち上がる正哉に、祥哉。  「本当はこんなつもりなかったよ。でもさ、好きな人がよく知りもしない人達とセックスするのは……やっぱり嫌かな」  そう言いながら祥哉が正哉に近づく。  「僕はあなただけを見てる。だからあなたも僕だけを見ててほしい」  「無理だって言ってるじゃない」  「どうしてそんなに他人と向き合うのを怖がってるの?」  再び目の前まで来た祥哉から逃げるように1歩後ろに下がる正哉。  「……君がセックスしたいならする。だから絵里奈には手を出さないで」  「そういうことじゃないんだよ」  祥哉の左手が正哉の肩を掴む。  「あなたにとってセックスなんて何の意味もないでしょ。僕は君とちゃんと心を通わせたい。だからここに来たんだ」  「私にどうしろっていうんだ……」  俯く正哉の声が震えた。混乱しているからか恐怖からか、少し涙目になっている。  祥哉の口元から笑みが消えた。右手を正哉の頬に添える。  「話をしよう? 僕はもっと正哉さんの話が聞きたい。あなたのことたくさん知りたい」  穏やかにそう言う彼の両目を、やっとのことで正哉は見た。そこからはやはり感情が読み取れない。  暫時、同じ顔の2人は見つめ合い、それから正哉が口を開いた。  「分かった。来て」  奥の部屋への引き戸を開ける。先週と変わらずそこは物が少ない。生活感を感じさせるのはローテーブルの上に無造作に置かれた爪切りとイヤホン、ベッドサイドにある使いかけのコンドームの箱くらいなものだ。  部屋に入った祥哉は、やはり先週と同じようにローテーブルの横にあるクッションの上に座った。正哉は彼から少し距離を置いてベッドの上に座った。  話をすると言っても何を話したらいいのか正哉には分からなかった。結局祥哉の求めているものは何なのだろうか。  「私は自分のことを話すのが得意じゃない」  一先ずそう言った彼を祥哉は見上げる。  「じゃあ……絵里奈さんのことは?」  「君も絵里奈とはたくさん話したんじゃないの」  「話したけど、あなたほど絵里奈さんと長い付き合いじゃない」  「君は絵里奈に興味があるの?」  正哉にそう尋ねられた祥哉は、視線を自分の手元に下ろした。逡巡してから視線はそのままに口を開く。  「無いよ」  淡々と彼はそう返答した。  両目を見開いた正哉。何故目の前の自分と同じ顔をした男はこんなにも自分の神経を逆撫でするようなことが平然と言えるのだろう。  先週の、祥哉を心配していた絵里奈を思い出す。祥哉に心を許して、彼に興味を持っていた彼女。  目の奥で何かが弾けたような気がした。  何を自分はこの男の前で我慢しているのだろう。何故自分をここまで抑え込むのだろう。  外の雨音が一際大きく聞こえる。それが余計に腹立たしく感じる。

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