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2章 1ー2

 刹那、正哉はベッドの上から祥哉の黒髪を鷲掴みにした。驚いて彼が顔を上げる間にベッドから降り、もう片方の手で彼の襟首を掴み、床に引き倒す。  「ふざけてるの?」  そう言った正哉は祥哉の上半身に馬乗りになって彼を見下ろす。その美貌に表情は無い。  「私が好きなら何で私を怒らせるようなこと言うんだい?」  正哉を見上げる祥哉に抵抗はない。  「……僕は嘘が吐けない。大体、絵里奈さんに興味があるって言ったって君は怒るんじゃないのかい?」  「本気で絵里奈が好きならまだいいさ。でも君は絵里奈を利用しようとしてるだけだ」  「絵里奈さんは僕が好きだ。あの子が幸せならそれでいいでしょ?」  「それで絵里奈が幸せな訳あるか!!」  祥哉の襟首を掴んでいた正哉の手が、彼の首を掴む。祥哉の表情が苦悶に歪んだ。  「正哉、さん……」  「そもそも絵里奈は君のことなんて好きにならない。これ以上絵里奈に近づくなら、私が君を殺してやる」  正哉の言葉に、苦しそうな祥哉の口元に笑みが浮かんだ。  「殺す、か……嬉しい、ね。僕のために……人生を、使ってくれるの……かい」  喉を押さえつけられて苦しそうな声でそう言われ、正哉の手の力が緩んだ。  「何言ってるんだ?」  「あなたが殺してくれるなら、嬉しいよ。死なんて怖くない」  「君はっ……!」  正哉の祥哉の首を掴む力が再び強くなり、祥哉の口から短く息が漏れる。  「死なんて怖くない? 君は本当に死を想像したことないだろう」  正哉の爪が祥哉の皮膚に食い込む。  死ぬことは怖い。幼少期、何度も死のうと考えた正哉は祥哉が笑って「怖くない」などと言うことが許せない。カッターの歯を出した時、包丁を首に当てた時、あの瞬間に襲う恐怖をきっとこの男を知らない。  そして絵里奈がこんな正哉の心をどれだけ支えてきたか知らないで彼女を利用しようとしていることが許せない。  「絵里奈は私の全てだ。君のためじゃない、絵里奈のために私は君を殺す」   祥哉の手が首を掴む正哉の手を掴んだ。苦しそうに彼は踠いている。  ──唐突に視界が歪んだ。遅れて自分の目から涙が溢れていることに気づいた正哉。感情を暴発させたせいだろうか。こんなにも憤怒したのは初めてかも知れない。  急速に世界が遠くなったように感じた。ここにいるはずなのにいないような感覚。背中に冷や汗が滲む。  手が痛い。雨音がやけに煩(うるさ)い。視界が端から黒く染まっていく。頭が重い。身体の芯が冷えていくような気がする。  祥哉が何か言っているが、聴こえているはずなのに上手く認識できない。  自分は何をしているのだろう。急に視界が大きく揺れ、完全にブラックアウトした。何かが自分の身体に触れる。  何かの上に寝かせられたのだろうか。身体に上手く力が入らない。夢の中のような感覚だ。寒気を感じるが、身体の一部に温かい何かが触れている。その熱がもっと欲しい、と思った。  「────さん、正哉さん……」  突然認識できなくなっていた音が耳に入り、正哉は目を開いた。黒く染まっていた視界も元に戻っていた。意識を失っていたのだろうか。  自分の下にいたはずの祥哉が自分のを見下ろしている。彼は目を覚ました正哉に安心したように微笑む。その首筋には先程自分の手が締め上げた痕が確かにある。  「よかった。急に倒れたからどうしたのかと思った」  この男は自分の首を絞めた相手にそんなことを言うのか、と正哉は呆れた。  正哉は座っている祥哉の膝の上に頭を乗せて寝ていた。部屋の置き時計に目をやると、意識を失っていたのは数分だけだったらしい。  祥哉が彼の頬を両手で包んだ。  「大丈夫? 正哉さん」  彼の行為に驚いて目を見開いた正哉。身体はまだ冷えている感じがする。彼の手の温かさが心地良い。  先程まであんなに憎しみ、殺したいと思った相手なのに、身体が彼の熱を欲しているように感じた。自分でも自分がわからない。ただ、先週目の前の男と交わした熱が忘れられない。  「…………祥哉、さん」  震える手で祥哉の頬に触れた。彼は不思議そうに正哉を見下ろす。  「正哉さん?」  正哉の長い指が祥哉の頬を撫で、首筋をなぞり、鎖骨に触れる。その指の動きに祥哉が唾を飲み込むのがわかった。  そして祥哉がキスをしようと頭を下げた時、正哉は大変なことをしてしまったと思った。この男を自ら誘うような行為をしてしまうなんて、何をしているのだろう。そう思った時にはもう正哉の唇は塞がれていた。  この温かさは欲していた熱だ。もっと欲しい。もっと感じたい。理性では駄目だとわかっていても、身体が祥哉に抵抗することを拒んでいた。  深く口付けされ、舌を入れられる。条件反射で正哉はその舌に自分の舌を絡めた。唾液が、2人の熱が混ざり合う。  口付けをしながら正哉は上半身を起こし、祥哉はその彼の身体を抱く。何も考えずこのままこの男を貪りたい。欲望に従ってしまいたい。  「────駄目だ」  唇が離れた瞬間、正哉は小さくそう言った。  祥哉は彼を抱いていた手を下ろし、彼の目を見る。俯いている彼の両目は伏せられ、長い睫毛には水滴が付いている。  「君とはこんなことするべきじゃない」  「正哉さん……」  再び正哉を抱き寄せる祥哉。彼に抵抗はない。  「そうだね。でも僕、嬉しかった。正哉さんが本気で僕に怒って、首を締めてくれて。殺すとまで言ってくれて。やっと本当のあなたと話せた気がする」  祥哉の言葉に正哉は絶句した。  自分の先程の行為は全て彼を喜ばせていたのか。自分が感情的になることが彼の望みだったというのか。意味がわからない。彼を喜ばせるつもりなんてなかった。  こんなにも自分の激情が虚しく思えることが有るだろうか。あの怒りはきっと祥哉には何も伝わっていない。  「…………意味、わからないよ」  「今は分からなくていいよ。これから分かり合っていけるなら」  祥哉は本気で自分と分かり合えるつもりなのだろうか。正哉はそう思いながらそっと彼の肩を押し、身体を離した。  立ち上がると少し眩暈がしたが、また倒れるほどではなさそうだ。先程失神したのは迷走神経反射だろう。ここ数日睡眠不足が続いていたし、激怒したことによって精神に負荷がかかったことがトリガーになり突然血圧が下がったのだ。  「絵里奈のことはもう君には話さない」  正哉がそう言うと、座ったままの祥哉は彼を見上げた。  「うん、いいよ。君にとって誰より大事な人だってわかったし」  「だから傷つけるなって言ってる」  「傷つけるつもりはないけど」  話が堂々巡りだ、と正哉は溜め息を吐いて閉口した。するとまた祥哉が口を開く。  「ねえ、正哉さん。ご飯食べに行かない?」  「はあ?」  「僕お腹空いたし、ここは食べる物何にも無いでしょ?」  時刻は11時30分、確かにそろそろ昼時だ。そして確かにこの家に食べ物は置いていない。しかしこの流れでどうして2人で飯など喰いに行く気になるのか正哉には理解できない。  祥哉も正哉の横で立ち上がった。  「さあ、行こう。この辺で正哉さんがよく行くお店、連れて行ってよ」  彼はそう言って正哉の手を握った。いつの間にか雨は上がっていた。

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