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2章 9-2

 祥哉は彼の前にしゃがみ、その震える肩に手を置いた。  「正哉さん」  「……うるさい」  「正哉さん、こっち向いて?」  「うるさいっ」  正哉は肩に置かれた手を払いのけようとしたが、逆にその手を祥哉に掴まれた。濡れた琥珀色の瞳が祥哉を見上げる。  更にもう片方の手で正哉の肩を掴んだ祥哉。  「嗚呼、あなたはすぐそういう目をする」  「…………?」  「そんな目をするから、誰もあなたとちゃんと向き合おうとしないし、あなたも誰とも向き合わずに済むんだろうね」  祥哉の言う意味が正哉には分からなかった。ただ、彼の唇が自分の唇に触れるのを呆然と感じていた。  軽く正哉に口付けをした彼は、再び琥珀色の双眸を見つめる。  「その目、ものすごく抱きたくなる」  そう言った祥哉に、力無く笑った正哉。彼が抱きたいというのなら、いっそ抱かれてしまえば自分も楽なのかも知れない。  「……抱くの? 私を」  「いや、それじゃ意味がないでしょ」  そういえば祥哉が求めているのは身体じゃなかったな、と正哉は思った。だから面倒くさいのだ。  「じゃあどうするの」  「僕と絵里奈さんが付き合うの、認めてよ」  「それはやだよ」  「どうして。だってそうすれば絵里奈さんは好きな人と一緒にいられるし、僕もあなたと一緒にいられる」  「でもそれは君が絵里奈とちゃんと向き合ってるとは言えないだろう? そんな人とは一緒になってほしくない」  「言えるよ。絵里奈さんの幸せと、ちゃんと向き合ってる」  また話が堂々巡りだ。正哉は今日幾度目かの深いため息を吐いて頭を垂れた。  祥哉にとって“正哉が人と向き合う”とは祥哉と絵里奈の交際を認めるということなのか。認めても認めなくても彼は自分に付き纏い続けることになる。  顔を上げ、自分と同じ色の祥哉の瞳を見る正哉。  「帰ってくれない?」  「逃げないでって言ってるじゃない」  「絵里奈とちゃんと話す。私が答えを出すのはそれからでもいいでしょ?」  正哉がそう言うと、彼の手首を掴む祥哉の力が少し強くなった。彼の目を見たまま逡巡した祥哉。  「……そう、わかった」  暫しの間の後そう答え、祥哉は正哉から手を離し立ち上がった。  「また次の土曜日にここに来るよ。絵里奈さんにもそれまで返事は待ってもらうように連絡する」  「うん」  正哉も立ち上がろうとしたが、思うように脚に力が入らない。そんな彼を見て祥哉は手を差し出した。  目の前に出された手を彼は暫時呆然と眺め、やがてその手を取って立ち上がった。しかし立ち上がった勢いのまま祥哉に倒れかかってしまい、その腕に支えられた。  「正哉さん……?」  「あ、ごめん」  正哉は直ぐに彼から離れようとした。しかしその腕は正哉を離さず、強く抱き締めてきた。  「愛してる、正哉さん」  耳に入ってきた祥哉の言葉は正哉にはあまりにも耳障りだった。彼の言葉にはいつも呆れさせられる。誰のせいで自分はここまで追い詰められていると思っているのだろう。  「帰って、早く」  小さな声で正哉が言うと、祥哉は悲しげな顔で彼を解放した。  正哉は隣にあった靴箱に寄り掛かり、祥哉は踵を返して先程脱いだ靴を履く。  「また来週、ね。正哉さん」  「……うん、また来週」  祥哉が出て行ったのを見届けた後、正哉はふらふらと奥の部屋へ戻って行った。  “逃げないで”と双子の弟は何度も言う。何故自分が逃げていると知っているのだろう、と正哉は思う。  逃げているのは祥哉からだけではない。  義父には出会ってから彼が亡くなる時まで結局心を開かなかった。1度も喧嘩せず、ほとんど口答えも意思表示もせず、彼の前ではいつも大人しくしていた。  母親は再婚してから穏やかになったが、正哉はずっと彼女を警戒していた。また怒鳴られるのではないかと、いつも顔色を窺っていた。  学校の成績や教師からの評価が良かったため何も言われなかったが、両親から正哉はとても無気力で覇気のない子供に見えていただろう。  そんな“家”が息苦しくて、全員がそこにいる土日は大抵友達と遊びに行くなどと言って出かけていた。  18歳の時、“家族”から逃げたくてわざわざ実家を出て群馬の大学に行った。都内の実家から通える大学などいくらでもあったのに。  それまで何の主張も無かった息子が突然群馬の大学に行きたいと言い、両親は驚いていた。放任主義の母親は何も言わず、父親は心配しながらも好きにしなさいと言ってくれた。  大学生の頃は男女問わず恋人を作っては直ぐに別れることを繰り返していた。もう顔も名前も覚えていない者ばかりだ。  田舎が嫌になり就職先は都内にしたが、実家には戻らなかった。  都内に戻ってからはゲイバーやハッテン場で遊び歩いていたが、もう恋人を作ることはなかった。身体で繋がることは恐れなかったが、心を開くことはどんどん恐れるようになっていった。  他者から逃げる人生を続けてきたのだ。  ────もう逃げるわけにはいかない。正哉はそう理解し始めていた。

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